マルコ 9: 2- 9
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。変容の出来事の意味
むさしの教会の主日礼拝で説教の機会が与えられたことを心から感謝しています。今日は変容主日です。毎年のこのころ私たちは、山の上でイエス様の姿が変わって白く輝いた出来事を、それぞれの福音書をとおして読みます。私たちのルーテル教会には、必ず毎年変容主日が回ってきますので、多くの方にとってこの箇所はなじみのある箇所であると思います。私は説教の準備のために今日の聖書箇所を確認したとき、少し戸惑いを感じました。まだ実習中の神学生に与えられた、ただ一回の説教ですから、もうちょっと説教しやすい箇所だったら良かったなという気持ちがあったのです。伝道のために、まだイエス様を信じていない現代の人々にイエス様のことを伝えるとき、私が思う一番難しいところの一つは、今の時代を生きる人々にとって非現実的な出来事、現代の私たちが持っている科学的認識では、納得しにくいことをどう説明するかではないかと思います。今日の聖書日課に書いてある変容の出来事は、私たちにとって非現実的な、非日常的な出来事です。この変容の出来事を私たちがどう受けとめるか、変容の出来事は何の意味を持つのかについて考えることは、私たちの信仰においても大きな課題であると思います。そして、変容の出来事が持つ意味について考えることは、イエス・キリストとは誰なのかに繋がるのです。結局変容の出来事とは、イエス・キリストは誰なのかを私たちに教えて、見せる出来事なのです。
「光あれ」
イエス様の姿は白く輝きました。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどであったと聖書は伝えています。イエス様が身にまとっていたのは、人間では造れない光なのです。「光」とは、キリスト教の大きな象徴性を持つテーマであります。創世記で神は天地を創造し、「光あれ」と言われます。それで天地を照らす光が創造されたのです。また、ヨハネによる福音書でも光について伝えています。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4~5)このほかにも聖書の中には「光」という言葉がたくさん出てきます。聖書がいう光は、神が創造した神の栄光そのものであって、キリストを象徴するものであります。今日の聖書日課で、神の栄光である光はイエス様をとおして現れます。この変容の出来事は神の栄光、イエス様の神の子としての本質が、限られた瞬間と空間の中で、限られた人に見えた事件なのです。
「六日の後」
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた」この文章の中に、変容の出来事の時間、場所、それにかかわる人たちが記されています。「六日の後」という時間の背景は何を象徴するでしょうか。イエス様は9章1節で「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なないものがいる」と言われました。そのイエス様の話があって、六日が過ぎたところなのです。創世記では神は六日間、天地と地上の生き物を創造し、七日目に安息なされました。六日が過ぎて七日目に神の創造が完成されたのです。ここでは「神の国が力にあふれて現れる」というイエス様の予告から六日が過ぎ、七日目にイエス様の変容が起きたのです。この出来事は、神の国の到来、終末、あるいはイエス様の復活の先取りであると考えられます。
高い山は、人々からは離れた所であって、天には近い所です。モーセが神の啓示を受けた場所も山でありますし、アブラハムがイサクを捧げようとしたとき、神の声を聞いた場所も山でした。高い山は神の顕現の場所です。モーセの時代にも、神様は雲の中にいてイスラエル民を導きました。イエス様は人々から離れた所、しかしイエス様ご自身が共にいる場所、神様の声が雲の中から聞こえる、その高い山にペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人の弟子を呼びかけるのです。
他にも弟子たちはたくさんいるのに、なぜこの3人でしょうか。弟子たちの中でこの3人が特に優秀な人、目立つ人だったでしょうか。その選びの基準はイエス様しか分からないことです。しかし、イエス様は弟子を集めるときも優秀な人を探して自分の弟子にしたのではなく、見近いところでご自分と出会った人を呼びかけ、自分に従った人を弟子にしました。私の個人的な考えでは、弟子たちの中で一番積極的に、熱い思いを持ってイエス様に従おうとした3人を、イエス様は特別に呼びかけたのではないかと思います。変容の出来事は短い瞬間で終わります。その後は、また何もなかったような日常に戻りが、この世に従うのではなく、誰よりもイエス様に従おうとする人、だれよりも神を見ようとする人は、限られた環境、短い瞬間であっても、神の栄光に輝くイエス様の姿を見ることが出来るのだと示しているのではないかと思います。
イエス様の姿が輝く中で、神様から律法を預かったモーセ、そして預言者の父であるエリヤが現れます。実に、この非現実、非日常的な光景を目の前にした弟子たちは非常に恐れていたと、どう言えばいいのか分からなかったと聖書は伝えています。その中でペトロが言います。「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロの素直な気持ち、そして自分なりに尊い方に対する尊敬を表したいペトロの姿が良く伝わってきます。ペトロは自分が見ている素晴らしい光景がすぐ消えるとは思わなかったでしょう。その状態がいつまでも続いて欲しかったから、モーセとエリヤもいつまでもいて欲しかったから、とりあえず仮小屋を三つ建てると言ったかもしれません。この神秘的な光景の中で、神の国はもう到来したと、これでこの世も変わるのだと思っていたかもしれません。しかし、モーセとエリヤは消え、輝かしい光も消えます。ペトロの仮小屋は本当にいるべき居場所ではなかったようです。「これは私の愛する子。これに聞け。」と天からの声があって、弟子たちの目の前に残ったのはイエス様だけです。
神の栄光は確かに目に見えたのですが、時間は止まらず、未来に向かって進まなければならないのです。山を下りながら、イエス様は弟子たちに言います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」この世の光、神の子イエス・キリストには計画があったのです。その計画はペトロの願いとは相反する、人の考えを超えた計画です。今日の変容主日を最後にして神の栄光が現れることを記念する顕現主日は終わります。来週からは四旬節が始まります。イエス様はこの後、栄光の光を隠して、受難の十字架に向かって進みます。そして、人々から苦しみと恥を受け、十字架の上で死にます。それはペトロの願い、神の国が力にあふれて現れるのを待ち望んでいる私たちの期待とはあまりにも違うものです。しかし、受難の時は必要だったのです。イエス様は神の光が一部の場所、一部の人々に示されるだけではなく、闇のどん底まで光が届くように、自ら呪いの底、絶望の底である十字架に進みました。それはペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人だけではなく、闇の世界に住むすべての人に光を届けるためでした。光が曲がることなく、いつもまっすぐに進むように、イエス様も何の迷いもなく、避けることもなく、十字架に向かってまっすぐに進んだのです。
神は光をとおして、混沌に満ちた世界を照らし地上に秩序を与え、虚無に向かう世界に希望を与えます。しかし、ヨハネによる福音書に「暗闇は光を理解しなかった」と書いてあるとおりに、闇の中に住んでいる私たちは光を理解しないときがあります。3人の弟子もそうでした。彼らは高い山で栄光に輝くイエス様の姿を見て、神の声を聞いても、後でイエス様を裏切ってしまいます。それは私たちの姿でもあります。私たちもそれぞれの人生の中で、イエス様が与えた道から背き、闇の世界に進むのです。
私たちが光を本当に喜ぶときはいつでしょうか。太陽が輝く晴れた真昼?もちろんそのようなときも光の豊かさを喜びますが、何も見えない暗闇の只中に光が差し込んだとき、絶望のどん底にかすかな光が届いたとき、私たちはもっとも光を喜ぶのではないかと思います。深い闇であるからこそ光はもっとも輝きます。イエス様は弟子たちの裏切りさえも担いました。それは私たちの裏切りでもあります。イエス様は人々の愚かさ、憎しみ、罪の重い十字架を持って、この世の一番暗い所まで進みます。光は、イエス様の受難の中に隠された形で、この世の闇、私たちの一番暗い所まで差し込むのです。
まっすぐな光
高い山で輝いたイエス様の光は私たちに何の意味を与えるでしょうか。前が見えない暗闇の中を歩むものにとって、光を探し求めることと、光を認めないことは大きく違います。光を探さずに、どこに向かっているのか分からないままさまようのは虚無そのものです。どうせ後で死ぬことしか知らないものには、その歩みも無意味です。しかし、前が見えなくてもいつか光を見るときが来ると信じるものにとって、光は苦難と絶望を打ち勝つ力となるのです。光は私たちに方向を示し、希望を与えるのです。実に私たちの周りには、キリストによって新しい人生を歩む人がいます。キリスト者は主の輝く光を見て、その光によって自分の姿、自分の人生も変えていくのです。パウロはコリントの信徒への手紙・3章18節でこう言っています。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に創りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」モーセは神様の御顔を前から見ることは出来ず、後姿だけを見たと出エジプトは伝えています。私たちの信仰の先祖たちは主の輝く顔を見ることを長い間、待ち望んでいました。それは、私たちがいつも礼拝の最後に聞く祝福の祈りの中でも現れています。「主があなたを祝福しあなたを守られるように。主が御顔を持ってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。主が御顔をあなたに向けあなたに平安を賜るように。」律法を神からイスラエルの民に運んだモーセ、そして主の日が来る前に遣わされた預言者エリヤの時代を経ることは、それぞれ必要な過程だったでしょう。しかし、その約束の実現はイエス・キリストによって現れるのです。
私たちが主の栄光の御顔を見るために求められることは何でしょうか。私たちが命の光を見るためには何が必要でしょうか。私は、主イエス・キリストに向かうまっすぐな心、光を捜し求めるであると思います。イエス様の計画をはっきり理解していなかった、後でイエス様を裏切ってしまう弟子であっても、輝く主の姿を見ることは出来ました。また、今日の旧約の日課に出てくるエリシャは、自分の主人であるエリヤが天に取り去られるため、自分から離れようとするとき、何度もこう言っています。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。私はあなたを離れません。」こうしたエリシャのエリヤに対するまっすぐな心は、彼が求めていたエリヤの霊を受け継ぐことを可能にしたのです。
私たちは神様がなさることをその瞬間、正しく理解することはなかなか出来ないのです。神様が私たちに示してくださった言葉や出来事を完全に理解しているとも言えません。神様のなさることはまさに私たちの認識を超えるものです。そしてそれは私たちに非現実的に感じられるのです。しかし、私たちの認識が足りなくても、神様の御言葉に従うことは、私たちを栄光の光、命の光へと導くのです。イエス様の変容を見た3人の弟子のように、その瞬間分からないことがあっても、それぞれの人生を送りながら少しずつ分かってくうかもしれません。大事なのは、私たちのそれぞれの暗い所にまっすぐに差し込むイエス様の光をまっすぐに受け入れ、そして従うことです。「これは私の愛する子。これに聞け。」と神様が言われたように、私たちの従うべき基準はイエス様の御言葉です。その御言葉をとおして、私たちの人生の中で私たちに向けられる命の光を感じることが出来ますように。
祈り
愛する天の父なる神様、絶望の中、寂しさ、苦難、恐れの中にいる私たち、深い罪の中を歩む私たちが、あなたの命の光を見てそれに従うことが出来るように。私たちがその光を見るまで足を止めることがなく、歩み続け捜し求めますように、私たちに必要な力をお与えください。この世の光、神の御子イエス・キリストの御名によって祈ります。おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2006年2月26日 主の変容主日礼拝説教)