マルコによる福音書 9: 2- 9
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。角を生やしたモーセ
旧約聖書に於いて、神はモーセと、人が友と語るように、顔と顔を合わせて語られたといいます。ローマに残されているルネッサンスの巨匠ミケランジェロのモーセ像は、神の示しのもとでイスラエルの民を荒れ野で導いた、たくましい指導者としての姿を写し出していますが、面白いことにその頭には二本の角が生えています。出エジプト記には、彼がシナイ山で神さまと出会って十戒を受けて帰ったとき、その顔の皮膚が光を放っていたと記されています。その「光」という言葉と「角」という言葉は同じ綴りであるので、中世のラテン語の聖書は角と訳していました。そして角がモーセの特徴として描かれていたのです。宗教改革のときルターは「光」と訳したのですが、その聖書でさえ版によっては挿絵に角を生やしたモーセが描かれている場合があります。私たちもいたずらに角を出すのではなく、輝かしい顔をしてゆきたいと願います。聖書はもう一つの面では、神が「あなたはわたしの顔をみることはできない。人はわたしの顔を見て、なお生きていることはできないから」と言われたことを伝えているのですが、神はいつも人をはるかに越えて栄光のうちにおられることを示し、それにも関わらずモーセは神との親しい交わりの中に入れられて、その栄光を反映することが許されたことを語っているのでしょう。
超越と内在
主イエスは人間のうちにおいでになり、私たちの間に宿られました。神の救いのみわざを私たちのうちに示すためです。しかし一方では神のみ子としての栄光を保っておられました。今日の日課は、弟子たちと山に登って神に祈っておられた主が、栄光の姿に変わったという「変容」の出来事を記しています。「栄光」という言葉も分かりにくい言葉の一つですが、神の本来のみ姿の輝きというような意味で聖書は用いています。いつの時代にも、主イエスの人間性重視の側面と、神のみ子としての神秘的な面を大事に考える傾向とがあります。あの「ナザレからなんのよいものが出よう」と言われたような時には、その神としての力が示されることが必要でありました。しかしイエスさまは神さまだからと、何の疑問も抱かず認めたり、棚上げしてしまおうとした時には、逆に本当に人間のうちに来られたことを強調することが求められました。クリスマスが主の人間としての誕生を覚える時として守られるようになったのも、その人性を確保するという面があったと言います。ルターも、幼子としてのイエスさまは、おおよそ赤ん坊のすることはなんでもやってのけられたのだと、強調しています。そして現代人である私たちは、人間の考えの及ぶ範囲で受け止めようとし、史実性を重視しようとしますから、いっそう変容の出来事に現れるような超越的な側面をしっかり見なくてはならないのです。
私たちは、余所行きの顔は一応整えていますが、「うちではどうもだらしがない」などと言われるようなこともないではありません。しかしイエスさまの場合は、むしろ身近かな内弟子たちだけの中で栄光の姿を示されました。しかもそれはペトロが「あなたはメシア」と告白し、主ご自身の死と復活について語りはじめられたばかりの時でした。主が神に面して祈っておられたとき、弟子たちには、そのみ姿が変わって現れたのです。そして旧約における最大の預言者で、預言者の代表とされたエリヤと、律法を受けたあのモーセが共に現れて、主イエスと語り合っていたのです。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
マルコは記していませんが、ルカはその語り合いの内容が、イエスがエルサレムで遂げようとする「最期」についてであったと、言っています。そこで用いられている最期という言葉は脱出、出エジプトについて用いられた言葉です。罪と死と悪魔の力からの新しい出エジプトが主イエスの果たそうとされた出来事でした。ペトロはもう無我夢中で三つの仮小屋を建てて、いつまでもその姿を留めておきたいと願いましたが、雲が彼らの姿を覆ってしまいました。しかし、雲は聖書において神の臨在のしるしでもあります。そしてその雲の中から、したがって神ご自身の呼びかけとしてのみことばがありました。「これは私の愛する子。これに聞け。」人々が主イエスに向かうように、主に聞くように呼びかけられたのです。それはただ耳でその言葉を聞きなさいとか、分からないことを尋ねなさいとかいうだけのことではありません。主に聞き従うことが求められています。ペトロはのちに、それは巧みな作り話や神話を用いているのではない、「わたしたちは、キリストの威光を目撃し」、天からの声を聞いたと強調して語っています(2ペトロ1:18)。いわば天的な、霊的な世界と、私たちが現実に見聞きする経験の領域を貫いてあるのは主イエスの出来事、ことにその死と復活の出来事であり、このお方にこそ聞けと告げられているのです。主の変容の出来事は、確かに一面では受難の前に、神がみ子の真実のみ姿を明らかにし、このお方こそが聞き従うべき主であることを示したのです。しかし、それは主のみ姿のことだけではありません。モーセは神さまに出会い、その顔が光に輝いたけれども、次第にその光は失せて行きました。そのさまを人に見られまいと顔に覆いをかけたのです。しかし私たちは主に向き直ることによって覆いを除かれ、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられてゆく」とパウロは言っています(2コリント3:18)。雲に覆われ、隠された主の姿は、私たちの隠された、しかし次第にあらわとなるべき姿を示しています。
インドの人の顔は人生を背負った顔だというようなことを言った人がありました。私たちは、何の変哲もない顔、あるいは打ちひしがれた情けない顔をしているかもしれませんが、しかし人生の顔どころか、はるかにそれにも増して、神の栄光に照らしだされたもう一つの顔を持つことが許されています。主に向き直ることによって、私たちも主が備えてくださった罪と死と悪魔の力からの脱出に与かることができます。喜びと望みに溢れた輝かしい顔を持つようにされることを、確かに自分のこととして行きましょう。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2003年3月2日 主の変容主日聖餐礼拝説教。石居正己牧師は元むさしの教会牧師でルーテル学院大学名誉教授。)