マルコによる福音書 9:30-37
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「人の心の中から」
わたくしたちが普段生活をしておりまして、いやだなあと思うことが多くあります。会話の中で、いやなことを思い出すような言葉を耳にして気が重くなることや、あまりふれたくない話題が持ち上がって「ああやだなあ」と思わされることがあります。わたしたちは皆悩み事や抱えている問題があります。せめて教会に来るときぐらい、いやなことを忘れたいとお思いになって礼拝にこられる方もいらっしゃるかも知れません。あるいは、避けて通るわけにはいかない現実問題を抱えて、この現実に対処していくための力を与えられたく、礼拝にいらっしゃる方もおられるかと思います。見たくないものから目をそらす、あるいは恐いものを避けて通る、これはわたしたちの自然の在り様であります。今日の聖書の箇所でも、イエスが言われたことを理解できず、恐れるあまりそのイエスの言葉の意味を質問できないでいる、深くつっこめないでいる、そういう弟子たちの姿が映し出されています。イエスはこう言われました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。今まですべてうまく行っていた主イエスの宣教活動、いやしの業、それらの栄光に満ちたメシアが、やがて無残にも殺される運命にあるなどと弟子たちは考えられなかったのであります。弟子たちはこの言葉が分からない、怖くて尋ねられなかったとあります。「まさか主よ、本当にあなたは死ぬのですか」そう尋ねることを恐れた弟子たちは、自分たちには信じられない事柄、理解できない事柄から目をそらし、沈黙するしかないのでありました。さて、カファルナウムまでの道すがら、さっきまで沈黙していた弟子たちは口を開き始めます。歩きながら弟子たちは互いに論じ合っていたわけですけれども、しかし弟子たちの言葉はここでは一言も並べられておりません。けれども、その議論は相当激しく行われたものと思います。そのやかましい議論の声はイエスの耳にも聞こえてきたはずだからであります。家に着いてから、イエスが弟子たちに問います。「途中で何を議論していたのか」。弟子たちは黙っています。彼らが何も言えなかったのは、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合っていたからであります。それはあたかも、イエスが言われていた「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という言葉を自分たちの意識から振払うかのごとく、自分たちの事柄に没頭していたのであります。当然彼らは自分たちが話していたことをイエスに知らせることはできません。誰が一番偉いかと論じ合っていた、そのような自分たちの姿を、イエスに知られたくないと思ったからであります。見たくないものから眼をそらし、そして知られたくないことについては沈黙を守る。誰が一番偉いかということについてはあれほど熱く語っていたにもかかわらず、イエスにそのような自分たちの恥ずかしい姿を知られたくないと、ここでも弟子たちはただ沈黙するだけなのであります。
見たくないものから目をそらし、そして知られたくないことを口にしない弟子たちの姿が、わたしたちの姿と同じなのかも知れません。自分の理解を越えた事柄に遭遇して何も言えなくなってしまう沈黙、また、恐れるあまり主に何も問いかけられない沈黙、あるいは、誰が一番偉いかという自分たちの世界に没頭していて主のことなど忘れてしまっているその主に対する沈黙、そして主からの呼びかけに対して心を閉ざさざるを得ない沈黙、そのような弟子たちの姿がここで見えてくるのであります。けれども、そのような弟子たちの沈黙に対して、イエスは自分も沈黙して弟子たちに相対する、そのようなお方ではありません。その弟子たちの沈黙の中に、主の声が響き渡るのであります。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。
弟子たちが論じ合っていた誰が一番偉いかという事柄は「競争の世界」であります。上へ上へと昇り詰めようとする世界、そして誰が一番で誰が二番か、それを決定させる世界です。イエスは弟子たちが競争の世界に生きていることを知っています。イエスは彼らの一番偉くなりたいという欲求を認めたうえで、「一番偉くなりたいと思うなら一番あとになりなさい、一番ビリになりなさい」と言葉をかけているのです。一番あとになること、これは解放の言葉であります。一番になるために走っているゴールを目指すその競争において、「走らず、歩きなさい」とイエスは声をかけ給うているからであります。みんなが走っているのにひとり歩けばビリになるのは当たり前です。過酷な競争社会にあって、あえて自分はビリになる、急がずただゆっくり歩きなさいと弟子たちを促しているのであります。
ゆっくり歩いていると普段目に留めないものが見えてくる、そういうことがよくあるかと思います。ここでイエスは一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせます。今の世の中では子供は大事にされていますが、当時のイスラエルは厳格な男性中心の社会であり、子供といえば、非人格的といいましょうか、一人の人格として認められていない存在でありましたから、社会的に取るに足らない者であった子供に目を留めて、自分のもとに引き寄せるなどという行為はおおよそ信じられないものでありました。子供は女性たちと共にいるものであり、男性が子供にかまっていようものなら「何遊んでいるんだ」と非難されてしまう、そういう社会だったのであります。イエスは「すべての人に仕える者になりなさい」と言葉をかけています。「すべての人」そこには子供も含まれています。普段目にも留めない子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせ、イエスはその子供を抱き上げます。それはあたかも、普段見ようともしないものに目を向けなさい、そう言っているかのようであります。イエスは言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。「わたしの名のために」という表現は「イエスの名において」あるいは「イエスの御名によって」という意味です。取るに足らない小さな者をイエスキリストの名において受け入れる、本来は目にも留めない存在に仕えていく、そうイエスは弟子たちに語りかけ給うのであります。これは競争社会の中で一緒に競争をしていたら決して見えてこないことであります。子供にかまっていて、もたもたしていては一番になれないからです。走って競争している中、ひとり歩き始めて、そして普段は目を留めない子供を見つけ、手を差し伸べる。イエスはこう言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。その子供を受け入れる者はイエスを受け入れている、つまり、競争して一番上に昇り詰めようと走っている足を止め、自分が今手を差し伸べている、その先にはイエスがおられるということです。イエスはそのような子供と自分を同じ位置に置いています。自分を取るに足らない者とみなしている、つまり、イエスは自分と子供はひとつである、あなたが受け入れるその子供はわたしなのである、そう言っているのであります。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。あえてその取るに足らない小さな者に目を留め、受け入れ、そして仕えなさいとイエスは語られています。子供がいるそこにイエスがおられる、普段目を留めないところにイエスがおられる、一番になろうとしている競争社会の中で走っている足をゆっくりにし、そこに見えてくるイエスにふれる…今までの生き方では見えて来なかったイエスにわたしたちは気づかされるのであります。
人の生き方を、イエスはよく見ておられたと思います。上に昇ろう昇ろうとする生き方、一番になろうとする生き方。それは人間にとって本質的な生き方ではない、そうイエスは言っているのではないでしょうか。上に昇ろう昇ろうとし、一番になろうとするところに行き詰まりがある、見えるものが見えて来なくなる、一番偉くなろうとしているその時、小さいものが見えて来なくなる、いや自分自身さえも見えなくなってしまっている…イエスはそう教えているように思います。
今日の聖書の箇所において、イエス自身、神の子であるのにこれから一切の栄光を捨てて、十字架の道を、神の栄光から下へ下っていく道を歩もうとしていました。一方弟子たちは一番偉い者へと自分が上へ上へと昇り詰める道を求めていました。一番偉い者になろうとするその道にはイエスはいない、上へ上へと昇り詰めた頂上にはイエスはいない。むしろ、十字架の道に、すべての人のあとになって一番ビリになっているそこにイエスはおられる。十字架につけられ、激しい痛みと苦しみの中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って息を引き取った、その人間存在のもっと低く、悲しいところにイエスはおられるのであります。
現実にわたくしたちが抱えます問題をもう見たくない、現実として受け止めたくないと思う気持ち、そして見たくないものから目をそらす、あるいは恐いものを避けて通る、そのような姿がわたしたちの自然の在り様であると最初に述べましたが、今日の弟子たちの沈黙の中に語られたイエスの言葉は、そのようなわたしたちの現実の姿に対して、わたしたちが目を留めないところにこそイエスがおられ給うということを教えています。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。弟子たちはそこから目をそらし沈黙せざるを得なかった、誰が一番偉いかと論じ合っていたその恥ずかしい姿を知られまいとして黙ることしかできなかった。けれども、イエスが語られる真実の言葉の中にこそ、イエスがおられ給う。そして「競争の世界」の一番うしろの取るに足らない小さな者の姿の中にイエスがおられ給う。イエスの名において子供の一人を受け入れる者はイエスを受け入れる。そして、イエスを受け入れる者は神を受け入れる。普段目を留めないところにイエスがおられ、そこに神がおられる。これこそ、弟子たちの沈黙の中に、そしてわたしたちの沈黙の中に響いているイエスの言葉なのであります。
祈り
祈りましょう。愛しまする天のお父様。わたしたちは問題を避けて通るために、あるいは避けて通るわけにはいかない現実問題に直面して、ただただあなたの力にすがるようにして今ここに集うています。主よ、わたしたちが沈黙するしかできない状況にあってもなお、あなたが声をかけてくださり、普段目を留めないところに御子イエスがおられ、あなたがおられることを信じることができますように。そしてどうぞ、わたしたちの直面しています現実問題を乗り越えて行く力を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2003年9月28日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教)