説教 「待ちわびる心」  徳弘浩隆牧師

マルコによる福音書 11: 1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日からアドベント・待降節に入りました。教会のカレンダーでは、一足早く新しい年が始まります。「去年は、皆様にとってどんな年でしたか?」というと少し気が早い感じもしますが、一年を振り返って、新しい出発をしたいものです。

待降節、キリストの降臨を待つ期間が始まります。「待つ」と言うことを、共に味わいながら、この新しい年を始めてまいりたいと思います。

このアドベントという言葉は、「来臨」を意味する言葉です。主イエス・キリストが受肉して来臨されること、つまりクリスマスを迎える心の準備をする。そして、実は「再臨」:キリストが再びこられ、最後の審判と救いの成就があるといわれているとき、これら二つのことを思い描きながら、その準備をする、そんな大切な期間とされてきました。

教会でいわれるジョークですが、こんな話を聞いたことがあります。

「やがて天国に行けば、私の愛する主人にもう一度会えるんですよねぇ」とご主人を先に亡くされた方が期待を込めて、待ち遠しい、楽しみにしている面持ちで牧師に尋ねた。すると牧師はこたえた、「ええ、もちろんですとも。でも、あなたが愛さなかった人とも再会するコトになりますね」と。天国での出来事を楽しみにする反面、今のままでよいのだろうかと、考えさせられる、決して笑ってばかりいられないお話です。

「キリストの来臨を待つ」、そのことが今日の福音のテーマであろうと思いますが、どのような心構えで待てばよいのでしょうか。そんな事を、今日の聖書からご一緒に聞いてまいりたいと思います。

「待つ」という言葉から、いろいろな言葉を思い浮かべてみました。パソコンでざっと検索しても、「待ち構える、待ち受ける、待ち合わせる、待ち伏せる、待ちかねる、待ちくたびれる、待ちほうける、待ちわびる…」と出てきます

そして、「待ち受け画面」なる言葉もインターネットで検索すると出てきます。若者たちが、携帯電話の待ち受け画面をそれぞれの思い出の写真やキャラクターのかわいいイラストなどで飾り、楽しんでいるもので、趣向を凝らしているものです。メーカーや業者もこれをビジネスチャンスとして、競っていろいろなサービスを提供しています。電話がかかると相手の電話番号だけでなくて、それぞれ、その人の顔写真や、その人の声やタレントの声で呼びかけてくれる、また好きな音楽がかかる、そんなものも普通になっています。私のある同僚は、奥さんからかかってくると、怪獣映画の「ゴジラのテーマ」がなるようになっていて、「ああ、奥さんからだ」と周りにいてもわかるのです。

こんな風に、「待つ」と言うことを、とても楽しんでいる様子が伺えると思います。

逆に、「待つ」と言うことが、どんどん苦手になってきている、そんな風潮も感じます。それは、社会は便利になってきて、「待たなくてもいい社会」になってきたからです。

私は今、教会事務局で新聞を作りの仕事もしていますが、昔と違ってパソコンで編集をし、原稿はFAXやフロッピーでもなく、ほとんどメイルでやり取りするようになりました。先日、締め切りぎりぎりに送られてきた原稿がわれわれが今使っているパソコン・Windowsではなくて、Macintoshの形式のフロッピーで郵送されてきました。もう時間がなくて困ってしまいましたが、原稿を送り返してもらうのでもなく、そのフロッピーを読み取るソフトを買いに秋葉原に走るわけでもなく(昔ならそうしていましたが)解決しました。インターネットで検索し、そのソフトを見つけ、クレジットカードの番号をいれ、インターネットでそのソフトを買い、自分のパソコンに転送しインストールし、電源を入れなおすと、もう自分のパソコンはMacのフロッピーが読み書きできるパソコンに早変わりわりしている、待つことなく、走ることなく、5分ほどの事で解決です。4-5年前なら考えられなかったことです。ニュースでも、時間まで待ってわざわざテレビの前に座ってスイッチを入れる、それを見逃すと1時間くらい待たないと次のニュースはない、そんな時代ではなくなりました。インターネットやケーブルテレビ、衛星放送などでいつでもニュースを「取り出す」事ができるようになったのです。「オン・デマンド」といいますが「こちらの要求に合わせて」、NHKでもTBSでもさっきのニュース番組を映像付きでインターネットで見ることができます。

そんな便利さのせいで「待つ」と言うことが下手になった、苦手になったと、私自身反省を込めてしみじみと感じているのです。どうも、最近妻に言われるには、「最近あなたは気が短くなった、怒りっぽくなった」とのことです。つい先日車を運転していて、生まれて始めてスピード違反をとられてしまい、少し元気をなくしているところです。すこし、ゆっくりと、気長に待つことも考えねばと思わされています。

「待つ」事の楽しさと、それが下手になったことを見てみました。さて、われわれは、どんな心構えでキリストを待てばよいのでしょうか。

今日の聖書を見て見ましょう。旧約のイザヤの言葉が身に迫ってきます。「ただ漫然と待つ」のでもなく、「神の助けを待たず、自分の力で何とかしようともがき苦しむ」、そのどちらでもない。そんな祈りの言葉が記されています。

「どうか、天を裂いて降って下さい」、天を見上げて助けを待つだけではなく、ダイナミックな、ぎりぎりの祈りの言葉として心に飛び込んできました。この、神に直談判するような心、その祈りのとおりに、天から降りて来られた方。私たちを救うために、すべてを与え、命を投げ出す覚悟で、私たちの只中に来られた方、それがイエス・キリストです。

新約聖書の日課では、イエス・キリストのエルサレム入城の場面が語られています。平和の象徴ロバに乗って、旧約聖書の預言のとおりにロバにまたがってエルサレムに入ってこられます。人々は王様を迎えるように自分の衣服を道に敷き、棕櫚の葉を敷き、またそれを振って大歓迎する、そんな人々の姿が伝えられています。

これらのように「願い、迎える、」それが待降節の本当の姿だと教えています。こんな風に私たちの只中にこられ、私たちを愛し、その命さえ投げ出された方。この方に出会うことによって、私たちは赦され、救われ、変えられていくのです。そして、そんな変えられた私たちの集う教会の働きにより、地域は変えられていくのです。

「待つ」という言葉から、いろいろなことを見てみましたが、「待ちわびる」そんな言葉が心に残りました。その意味は「待ちくたびれて気力を失う」ということだとそうです。そのくらい待つこと、一生懸命やりつつも、人間の限界をいやというほど知らされて、天を見上げ、謙虚に、神様からの救いを待つこと。そしてこのままでは解決はないと絶望するような心持、そんな気持ちで神様に直談判するような心持で解決を願う、そんな時をすごしたいと思うのです。  最近こんな本を手にしました。「世界がもし百年の物語だったら」という、インターネットを駆け巡り、そして絵本になって有名になった「100人の村」の、新しいバージョンです。これもなかなか面白い本でした。地球の誕生を46年億前として、その歴史を100年に換算してみたらという本です。「私たちはどこから来て、どこへ行くのでしょう」とあとがきにもある、そんな人生の根本問題を考えさせてくれる、面白い本でした。

この本によると、100年にたとえると、人類の歴史はちょうど99年目に始まる。それも最後の一ヶ月、99年目の12月1日に人類は誕生したことになるそうです。文化、国家、社会の形成は12月31日の午後9時過ぎの事。そして、ようやく11時過ぎに宗教が生まれた。キリストが生まれたのは10時59分となっています。年末も押し迫った、最後の最後という感じですね。

神様の、また聖書の歴史と、この宇宙・地球の科学的に推定された年齢からくる歴史を、どう重ねて考えるべきかは難しいところはあるかもしれません。しかし、そこから見えてきたことはこうです。「人類の歴史はそんなに短いのか」とがっかりすると言うこと。そしてその反面、「神様が天地創造されて、人類を創造するまでにさまざまな準備をされた時間は途方もない長さがあった」のだということ。99年目の12月1日までかけて準備して、ようやく愛する人類を創り住まわせたのに、人間は神様を裏切り、罪を犯し、罪にまみれた社会と歴史を創ってしまった。なんと無念なことでしょう。今までの準備や期待や願いをすべて失ってしまい、途方にくれる、絶望するような神様のお気持ちがあったのではと思うのです。

それまで待ち続けた神様の思い、そしてその人間を救うために愛する独り子をお送りになるその思い、それは、今私たちがクリスマスを待つ思いをはるかに超えて大きなものなのです。

「待つ」のではなく、「待たれ続けていた」、これが実は今日示された大きな福音です。そんな大きな神様の愛に応えるべく、「待ち望む」、そんな日々を送りたいものです。

皆様の上に、神様の大きな祝福をお祈りいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年12月1日 待降節第一主日礼拝説教)

徳弘浩隆牧師は現在、宣教・広報室長として日本福音ルーテル教会事務局に勤務。むさしの教会メンバー。