1903年、27才のマンは自伝的小説の中で、芸術家と俗人(市民気質)相反するものの間で揺らぐ主人公トニオをみごとに描いている。トニオは破風づくりの家並みがそろう北ドイツの町で生まれた。父親は手広く穀物商を営む領事である。14才のトニオは勉強よりも詩や音楽を愛する夢想的な少年である。彼はクラスの優等生で快活で金髪の美少年ハンスを心から愛するが、トニオの繊細な心は理解されず幾度か苦悩をなめている。
ある精神構造を持ちえないハンスを作者は俗人として定義している。16才のトニオが恋したのは、豊かなブロンドのおさげ、切れ長の碧い眼のインゲボルグであった。しかし彼女もハンスと同じ世界に住む人間(俗人)であった。自分が憧れ求めている人達が別世界で相反しているのは実に苦しいことだが、彼は幸福だった。
父の死後、彼は南国へ行き、精神と言葉の力に身を委ねるべき修業を重ね、少しは名の知れた詩人となるが快楽の冒険にはまり、良心の呵責に苦しむ。
穏やかな市民生活と芸術家志向との葛藤、画家リザヴェータに芸術家としての苦悩・孤独を告白するが「迷える俗人」と一言で「片づけられる」トニオはデンマークに旅行し、途中、10何年ぶりにホテルでハンスとインゲボルグの姿を見い出す。二人は昔と変わらず、溌剌と幸福そうに見えた。
二人を遠くで眺めるが、再会の時も芸術家気質のトニオが一部の俗人(ハンスとインゲ)に対して昔と変わらぬ深い愛情を持ち、トニオの中で、余りにも大きな存在として根付いている。彼の心は生きていたから。
リザヴェータに手紙を書く。『文人を詩人に変える力があるならば、それは、ほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのです』この小説のテーマ、芸術家と俗人の対立に於いて、トニオは一部の俗人を愛し今も昔も受け入れることにより、最後に真の芸術家としての自身の価値も高めている。この作品は難解であるが青春の混沌(カオス)にいざなわれ読みごたえがあった。