説教「全世界に出てゆきなさい」 大柴 譲治牧師

マルコ 16:9-18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

弟子たちをとがめる復活の主

イースターおめでとうございます。イースターの光の中で今朝もご一緒に礼拝を守れますことを感謝いたします。

本日の福音書には、復活された主がマグダラのマリアに現れ、二人の弟子に現れ、そして十一弟子にも現れたということが記されています。

深い嘆き悲しみの中ではしばしば他者の言葉が耳に入らないということが起こります。この時の十一弟子も自分を支えるだけで精一杯でした。「今私はよみがえった主と出会った!」と語るマグダラのマリアと二人の弟子たちの喜びの声を信じる者は誰もいませんでした。彼らは師を失って絶望的な思いに捕らわれていた。そこには主を見捨てて逃げてしまったことに対して後ろめたい複雑な気持ちもあったでしょう。これからどうすればよいのか全く分からない、出口の見えない状況です。イエスがよみがえったなどということはとうてい信じることはできませんでした。

ところが今度は主ご自身が十一弟子に現れ、彼らをしかりつけるのです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(14節)

弟子たちが信じられないのも無理もないと思いますが、私はこの部分を、復活の主ご自身が私たちの頑なな心を打ち砕いてくださり、信じない者から信じる者へと変えてくださるというように読みたいと思います。ボンヤリしていたのを急に頬をピシャッとたたかれてハッとするようなものです。とがめられることで信じる者へと変えられるのであれば、私たちも喜んで復活の主にとがめられたいものだと思います。主はいつも向こう側から私たちの側に近づいてくださり、私たちの思いもかけぬ仕方で私たちに働きかけてくださるのです。

食事における復活の主のリアリティー

賀来先生も先週触れておられましたが、マルコにもルカにもヨハネにも、復活の主が食事を通して弟子たちにご自身を示されたことが記されています。これは重要なことです。主の食卓を通して私たちが復活の主のリアリティーを感じ、変えられてゆくということが示されているのです。そこでは聖餐式が指し示されていましょう。

来週はヨハネ福音書21章が日課として与えられていますが、そこでは復活された主が弟子たちのために炭火をおこして魚を焼かれるという場面が記されています。炭火と焼き魚の匂いという極めて具体的な事柄の中に復活の主はリアリティーをもって立っておられるのです。

一緒に食事をすることは初代教会にとって大切なことでした。彼らは迫害の中に置かれていました。大きな悲しみと嘆きの中で、自らの無力さと不信仰をかみしめる中で、聖餐を分かち合うことを通して教会は復活のキリストのご臨在を感じ、慰めと励ましを受け取っていったのです。それは私たちもまた同じであります。

私たちは聖餐式を毎月第一日曜日とクリスマスやイースター等の大きな祝祭日にしか守りませんけれども、ほとんど毎週、礼拝後には昼食(愛餐会)を分かち合っています。これはボランティアで準備にあたってくださっておられる方々の「ビタミン愛」のたくさん入った美味しいお食事で、そのご奉仕に感謝いたします。今日もヘルシーサラダご飯をいただきます。10年前の増改築で、設計者の故河野通祐さんや建築委員長のN.Kさんらが中心になって大きくて使いやすい台所を作ってくださったことは、聖書的で教会的な先見の明があったのだと思います。それは現在のむさしの教会の交わりに大きな恵みをもたらしてくれました。

聖餐式や愛餐会を共にすることの中で復活の主がリアリティーをもって私たちに迫り、様々な悩みの内に置かれている私たちを祝福し、慰め、新たな力をもって導いてくださる。復活を信じることができずにいる者が食卓の交わりを通して変えられてゆくのです。

食べるということ

私たちは植物と違って、体内で光合成を行うことができないので、生きるためには外部から栄養を補給する以外にありません。食べ物はそれ自体が命を持った生きものです。その命をいただいて私たちは生きるのです。いや、正確に言うなら、生かされているのです。私たちのために死んでくれるものがなければ、私たちは片時も生きることができないのです。そして食物を料理してくれる人がいるおかげで私たちは生きてゆくことができるのです。

「おかげさまで」という美しい日本語があります。食べ物となってくれたもののおかげさまで、それを美味しく料理してくださる方のおかげさまで、私たちは生かされている。食事をする前に私たちは手を合わせて「いただきます」と感謝して食べ始めますが、それは私たちがそのような大きな命の連関の中に置かれているということを意味しています。

そしてもしかすると、私たちが他の命を食べなければ生きてゆくことができないということが「原罪」ということなのかもしれません。そう思う時、原罪の克服が私たちを生かすための生命のパンとして自らを十字架の上に差し出された御子イエス・キリストによって成し遂げられているということの重さにハッとさせられます。

「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という言葉通り、主はご自身のすべてを与え尽くされました。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約」と言ってパンとぶどう酒を差し出してくださるお方がいる。弟子たちはその食事のただ中で復活の主のご臨在を感じ、復活の主と出会ったのです。そしてそこで揺らぐことのない喜びに満たされて、それを携えて世界へと派遣されてゆくのです。ここにこそ私たちを生かす本当の命のパンがあり、真の命の泉があるということを全世界に告げ知らせるために。

三つの体験

先週私は三つの印象的な出来事を体験しました。イースターの翌日、17日(月)でしたが、ご自宅でA.N兄の病床洗礼式を行いました。それはNご夫妻と私たち夫婦の四人だけの小さな洗礼・聖餐式でした。37年間、奥様が祈り続けてきたことがかなえられたのです。一年半ほど前、大学病院で外科医として働いておられたN兄は突然大動脈瘤破裂を患い、手術を受けて九死に一生を得られました。それからはご家族が献身的に介護してこられました。風邪や肺炎などによる熱で緊急に入院されたことも幾度かありました。受洗に至るまでは賀来先生やキスラー先生、石居先生、また多くの信徒の方々の祈りが背後にあった。受洗の時にも、水分補給のために奥様がかつお節でだしをとったスープを点滴されておられました。心のこもったビタミン愛のスープでした。

20日(木)にはこの春に按手を受けて東京教会の協力牧師になられた関野和寛先生の牧師館を訪問し、夕食をご馳走になってまいりました。「主の最後の晩餐を意識して食卓とイスを買いました」ということでしたが、本当に大きな木のテーブルでした。共に食べることの大切さをかみしめたひとときでした。サラダや大根の煮付け、地鶏の焼きものや手作りの味噌うどんなど心のこもったもてなしは、なかなか味わい深いものがありました。

もう一つは昨夜(22日)のことです。水曜日に89歳で亡くなられたA.Hさんのお母様のお通夜に私は妻と一緒に教会を代表して参列させていただきました。真言宗のご葬儀でしたが、最後の部分でお坊さまの説法が入るというなかなか味わい深い式でした。お坊さまは「私たちが誕生したときにへその緒を切ってくれたのはお産婆さんやお医者さんだった。私たちにとって大事なことはいつも他人がしてくださる。その恩を覚え、その功徳に報いることが大切なのだ」というお話をなさいました。それを聴きながら思ったことは「親の恩の深さ」ということです。特に母親の作ってくれた味は誰にとっても忘れられないものです。子育ての際に親は、限界を持ちながらも精いっぱいの祈りを込めて、子供たちに豊かなものを与えようとします。そして多くの場合、私たちは親の恩には報いることができないのです。親の世代から受けた恩は、次の世代に返してゆくしかありません。

復活の主の派遣

復活の主が食事の席で弟子たちにご自身を示されたということは、私たちは主の復活からの命をいただいて生かされてゆくのだということを意味しています。私たちは復活の主から命のバトンを手渡されているのです。復活の光の中で、このお方が与えてくださった命の糧のおかげで今私たちは生かされているのです。

復活の主は弟子たちに言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)。「全世界」とは、どこか遠いところに向かって出発しなさいということではないでしょう。私たちの置かれている今ここでの、日常生活のことです。復活の主につながる今日のこの命を大切に生きることを求めているのです。復活の主が常に人生の同伴者として私たちの食卓にいてくださる。そのことをご一緒に味わいながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豐かにありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年4月23日 復活後第一主日礼拝)