マルコによる福音書 16:09ー18
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「事実」と「真実」
イースターおめでとうございます。主はここにいまさず!主の墓が空っぽであったことをマルコ福音書16章は告げています。しかし、お気づきになられたでしょうか。実は、本日の日課である9節から20節までは「結び一」と題され[](括弧)に入っています。つまり、この部分は後の時代に付加されたと考えられる部分なのです。マルコ福音書は本来は8節、墓が空っぽであった報告で終わっていた。そこに、復活の主のマグダラのマリアと二人の弟子たちへの自己顕現、11弟子の全世界への派遣、昇天といったことが加えられていったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。本日は17節の「新しい言葉を語る」という言葉を心に留めながらみ言葉に聞いてまいりたいと思います。なぜ9節以下が付加されたのか。それは教会が「空の墓」以外の、それ以上の結びを必要としたということを意味しています。16章が8節で終わるとそこにはどうしても話が途中で終わったという印象が残ります。ふさわしい結びとは言えない。比喩的に捉えるなら、私たちの人生にもやはり結びが必要ということにもなりましょう。「主の墓が空っぽだった」という事実だけでは終わることができないのです。
遠藤周作は「事実」と「真実」を区別しつつ次のように語っています。「空っぽの墓というのは歴史的な事実であり、歴史学はそこまでしか証明できない。しかし復活とは、たとえ事実とは言えなくとも、弟子たちの心の中にキリストがよみがえったという信仰的な真実である」。復活のキリストを科学的に証明することはできません。それは人間の理性によって把捉可能な範囲を超えています。この中にはパウロのように直接復活のキリストと出会った人もいるかもしれませんが、私たちの多くは間接的に復活の主と出会っている。つまり、信仰の先達との出会いを通して復活のキリストを信じる者へと変えられてきたという経験を持っていると思います。
理性には限界があって、そのような限界を超えるものを思惟しないということを明確にしたのが哲学者のカントでした(『純粋理性批判』)。理性の働きは疑うということなのです。神の受肉にしても十字架にしても復活にしても、私たちは理解できないことをただ信じるのです。その意味では8節の「空の墓」から9節以降の「復活のキリストの自己顕現」にジャンプする、その間にある深淵こそが大切になります。初代教会はそのところを強調したかった。そして理性で把握できない「結び」、信仰によってしか受け入れられない真の「結び」を明示したのです。それはそれまでに一度も語られたことのない全く「新しい言葉」でした。
「使徒の中の使徒」マグダラのマリア
マルコとヨハネ福音書には、復活の主が最初にご自身を表されたのがマグダラのマリアであったということが記されています。マタイ福音書では、復活の主が「おはよう」と言ってご自身を示されたのはマグダラのマリアともう一人のマリアだったと記しています。ヨハネ福音書では、主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか?」とマグダラのマリアに問い掛けると、彼女は復活の主に気づいて「ラボニ(先生)」と呼びかけていると記しています。マグダラのマリアは、本日の日課でもルカ8:2でも、「七つの霊を追い出していただいた婦人」と説明されています。彼女はガリラヤ湖西岸のマグダラ村(ティベリアスの北5キロの地点)出身の女性で、現代で言えばおそらく統合失調症(分裂病)かてんかん、または躁うつ病と診断されるような精神的な疾患でひどく(「七つの霊」!)苦しんでいたのを主によって癒された婦人でした。
当時十字架刑の場合には、埋葬はおろかその者のために悲しむことも禁じられていたようです。「処刑された者の死を悼んで公然と泣いた人々は(婦人や子供も含めて)同様に処刑された」とある註解者は説明しています(ドロテー・ゼレ、『聖書の中の女性たち』、同朋舍出版、1994、P278)。男性の弟子たちが恐れおびえてどこかに隠れていたまさにその時に、マグダラのマリアはそのような危険を冒してイエスの墓に出向いている。マリアはイエスをすべてを尽くして仕えたのです。その意味で、アウグスティヌスはマグダラのマリアのことを「使徒の中の使徒」と称賛しています。マリア自身もイエスの十字架の死に深い悲しみを味わっていたことでしょうが、その悲しみの中にじっと踏み留まり続けたのです。現実においては多くの場合、女性は男性よりも大胆に、悲しみや絶望の深みに踏み留まる勇気と忍耐、そして精神的な強さを示すことができるように思います。
復活を信じられない心のかたくなさ
復活の主の最初の証言者となったマリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行ってこのことを知らせました。しかし彼らは、「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(10節)。男たちの心はかたくなだったのです。続いて、復活の主は二人の弟子たちにご自身を示されますが(ルカ24:13-35も参照)、それでも他の弟子たちは主の復活を信じようとしません。それは無理もありません。復活とは本来人間の思いや理性や期待を越えたところにあって、それまで一度も人間が聞いたことのないような「ありえない」出来事だったからです。14節には「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とありますが、「不信仰とかたくなな心」というのはまさに私たちの現実を表していましょう。ヨハネ福音書20章に出てくる疑いのトマスではないですが、私たちのかたくなさを外側から打ち砕き、信じない者から信じる者へと変えてくださるのは復活の主ご自身の働きであります。
そして主を信じる者は全世界に派遣されていきます。「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」(15節)。「全世界」というのはどこか遠いところを指しているのではなく、私たちの現実の身近にある日常生活のことを指していましょう。この新しい「結び」は全世界のためでもあったのです。
不信仰即信仰
16節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という言い方は、事柄としてはその通りであると思います。しかし、この言葉を私たちが聞くとき、私たちは自分が本当に信じているだろうか、滅びに定められているのではないだろうかと不安になるのではないでしょうか。自分の信仰に自信を持っている人はおそらく私たちの中にはいないでしょう。いつも迷ってばかりいる自分、いつも壁にぶつかったり、確信が持てずに疑ってばかりいる自分の弱さと不信仰とを私たちは知っているのです。しかしイエスさまは、十分にそれらを知った上で弟子たち(私たち)に臨まれている。復活の主が向こう側から近づき、ご自身を示してくださる時に、信じることができずにいた者が信じる者へと変えられてゆくのです。私たちの側の心のかたくなさが打ち砕かれるというのは自分の決断如何によるのではありません。人間の心の高慢さ、かたくなさが打ち砕かれるのは100%、神さまの側からの恵みのみ業です。2コリント12章でパウロは「自分の弱さを誇ろう」と言っています。まことに不思議なことなのですが、私たちの弱さの中にこそキリストの強さ、キリストの愛の力が働くというのです。誇る者は主を誇る。そこから考えますとき、復活の主が私たちに向かって「世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられるときには、逆説的な言い方ですが、私たちは私たちの弱さにおいて働くキリストの力を宣べ伝えるよう召されているのだと思います。そこでは弱い者がそのままで用いられてゆくと宣言されていると言ってもよいでしょう。
17-18 節には信じる者には次のようなしるしが伴うと告げられています。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。私たちは悪霊を追い出すこともできなければ、新しい言葉を語ることも、手で蛇をつかむことも、毒を飲んで害を受けずにいることも、病人に手を置いて治すこともできないでいます。困難の中に置かれると自分が復活のキリストを信じて洗礼を受けたことをも忘れてオロオロしてしまう以外にない。しかし聖書は語ります。信仰を授かった者は弱いときにこそ強いのだと。
パウロのこの言葉を注意して理解したいと思います。弱さの後に強くなるというのではありません。弱いときにこそ強い、弱さのただ中で強いとパウロは言う。弱いということと強いということが信仰においては同時に起こるということです。これは不思議な同時性です。「義人にして同時に罪人」とルターは言いましたが、「弱さ即強さ」「不信仰即信仰」なのです。弱さを誇ることが福音を誇るということ、弱さを恥じないということが福音を恥としないということなのです。復活を信じることができなかった者がそのままで同時に復活を信じる者へと変えられてゆく。これが「わが恵み汝に足れり」と言ってくださり、私たちの弱さの中に完全に働くキリストの力なのです。
「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」とありますが、この言葉(福音、復活の主キリストを信じる信仰)の新しさとは、信仰においてはそのような弱さと強さが同時に起こるということ、弱いままで強いというそのような存在の新しさを新しい言葉でもって伝えてゆくということにあるのではないでしょうか。復活のキリストが私たちと共にいてくださるというキリストのリアリティーが私たちを弱いままで強くしてくださるのだと信じます。それが「安心してジタバタして死んでゆける」ということなのではないか。マルコ福音書に16:9以下が付け加えられていったのも、そのような私たちの弱さに働くキリストの力を明確に示すためだったのではないかと思えてなりません。そしてそのことは私たちが自らの人生において、日常生活において、日ごとに味わってゆくべきことなのです。
悲しみや病いや行き詰まりの中にある者たちに、復活の主イエスご自身が私たちを通して新しい言葉を語ってくださいますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2003年4月27日 復活後第一主日礼拝説教)