小川修「ローマ書講義Ⅲ」改訂書評 菅原 力

『本のひろば』(2011年11月号)で石川立氏は小川修氏の「ローマ書講義Ⅰ」について、「〈聖書学〉と〈神学〉が概してそれぞれの成果に無関心で」あり、「ほとんど無関係となって」「〈聖書神学〉という用語は死語になりつつある」中で、「正面から堂々と〈聖書神学〉を講じる書が現れた。」と紹介された。〈神学〉とは何かという議論が今日いろいろある中で、聖書が語る救済、啓示の事実を宣べ伝える使命を託されている教会において〈聖書神学〉がなくてならぬものであり、生命線であることもまたまちがいのない事実である。

小川修『ローマ書講義Ⅲ』(小川修パウロ書簡講義録3)がⅠ、Ⅱに続き出版された。「講義Ⅲ」ではローマ書の8章から15章までの講義が記録されており(16章は割愛)、これでわたしたちは小川修氏によるローマ書講義の全体を手にしたことになる。そしてわたしたちは、この本によって日本語によって編まれたすぐれた聖書神学の成果としての「ローマ書講義」を手にしたことになる。

著者がこの「講義」の中で繰り返し語る福音とはローマ書1章17節の「エック ピステオース エイス ピスティン」にあらわされているものである。これは「神の〈まこと〉から人間の〈まこと〉へ」ということであり、神の〈まこと〉とは、キリスト・イエスの中に人間はある、という神の与えた現実のことである。われわれが今ここに、〈からだ〉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨てた神の子のピスティスの中にあるからだ。この神の〈まこと〉という第1ピスティスこそが人間の〈まこと〉である人間の信仰(第2ピスティス)を呼び求めてくるのであってその逆ではない。人間の神に対する熱心が信仰を生み出すのではない。神の〈まこと〉(第1ピスティス)に気づかされた者がその応答としての第2ピスティスで応えていく。この神の〈まこと〉の中にある人間という現実こそが、根本的な義認であり、これを受容する(第2ピスティス)人間に神の義が表れる、と著者は語る。「ローマ書講義Ⅲ」においても、著者はこの福音の中に立って、ローマ書後半の講義に入っていく。神の選び、予定論、倫理、国家に関して。読者は神の〈まこと〉の中にある人間という現実から、ローマ書後半のさまざまな事柄と向き合っていくことになる。

この本の大きな特徴は書名にあるとおり「講義録」であるということである。しかもこの講義録は、限りなくその場の「語り」に忠実な「講義録」なのである。その「語り」の復元は徹底しており、「あの」「その」の頻発はもちろん、ちょっとした言い間違えやくりかえしまでそのまま再現している。なぜここまで、と感じるほどだが、読み進むうちにその意図は次第にはっきりしてくる。同志社大学神学部の大学院で行われたというこの講義は、配付した資料、講義箇所の要旨、ギリシア語本文、私訳、質疑応答、そのすべてが記載されている。まさに講義の全容が再現されているのである。読者はこの本一冊で直ちに教室の最前列に着席し、ローマ書という大きな森に入り込み、一本一本の木をていねいに見つめながら、尚、森全体の中心にある福音から一歩たりとも離れることなく読み解いていく小川氏の講筵に連なるのである。

この講義は小川氏自身が生きている福音が繰り返し語られる講義であり、その繰り返しの中で人間のまこと(信仰)とは、人が神のまことを自分の存在の根拠と由来として受けとることに他ならない、ということが著者を通して豊かに語られる講義なのである。講義録において講義者が一体どんなことに自分の存在を向けているのか、それはその語り口の中に如実に表れてくるのではないか。読者はこの講義に列して講義録ならではの醍醐味を存分に味わうことができる。

「講義録」を編んで下さった刊行会のメンバーの御労苦に心から感謝すると共に、今、日本の教会にもっとも必要な聖書神学の成果がこのような形で出版されたことを喜びたい。尚引き続き刊行されるというパウロ書簡(コリント、ガラテヤ)の講義録の出版も期待して待ちたい。

(すがはら・つとむ 日本基督教団弓町本郷教会牧師)