説教 「あなたのために」 石居 基夫

ルカ福音書 2:1-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神さまの舞台に

クリスマスおめでとうございます。久しぶりに、武蔵野でのクリスマスを過ごしますが、この教会でのクリスマスにはたくさんの思い出があります。ご存知の方も多いとは思いますけれど、ちょうど神学校がハイムの場所にありました。私の小さい頃は、その神学校の体育館からだろうと思うのですけれど緞帳が運び込まれて、ここに張られる。この聖壇が舞台になって、教会学校のクリスマスが祝われました。1・2年、3・4年、5・6年生という具合に分かれて、降誕劇はもちろん、靴屋のマルチンとか4人目の博士の話などの劇をして、クリスマスを喜び、そして、子どもたちはそこから大事なメッセージを受け取っていったように思います。

考えてみますと、しかし、この広い聖壇が舞台になったというのは、なかなか意味深いことのように思います。というのは、私たちは、それぞれに自分たちが生きるということを、ある意味で、人生という舞台にあがるようなものとして考えることができるからであります。その舞台には、自分が登場したくてするわけではないし、どういうストーリーであるかも、実は私たちが知っているわけではありません。けれど、神様が用意してくださって、神様がいわば脚本を書き、監督をしてくださっているような舞台です。私たちはみな、神様の舞台に生かされているといってもよいのかもしれません。そう考えると、教会学校の頃、この聖壇を一つの舞台として祝われたクリスマスは、人生という舞台を学んでいくリハーサルだったのかもしれません。神様の用意くださる舞台に、私たちは一体どんな配役をいただいているのでしょう。

一番初めのクリスマス

一番初めのクリスマス。つまり、イエス様がお生まれになられたあの夜の舞台には、ルカ福音書によりますと、羊飼いたちが登場いたします。この羊飼いたちも、それこそ自分たちから求めてこの舞台に登場したのではありませんでした。その時は、ただ夜通し「羊の群れの番をしていた」のです。そんな彼らが神様の栄光によって突然にめぐり照らされて、この舞台に引きずり出された。いったい、なぜ彼らはここに呼び出されているのでしょうか。

実はこの出来事は、もうひとつの古い歴史の舞台を思い起こさせるものでもありました。紀元前11世紀の終わりのころ、イスラエルが初めての王サウルによっておさめられていたころのことです。このサウル王は、神様の言葉に従うことよりもさまざまな政治的駆け引きの中で人の言葉に動かされてしまい、自分のなすべき務めを見失ってしまいます。神様はサウルに代わり、新しい王を立てることをお決めになられた。預言者サムエルが神様から示されたのはベツレヘムの町のエッサイという者の息子が王となるということでありました。

サムエルがエッサイの家へ出かけてみると、果たして長男エリアブは大変立派に見えたので、これが王になるものだとサムエルは確信するのです。しかし、神様はサムエルの思い違いをたしなめる。人間は自分の価値観で判断するかもしれない。しかし、神様は違うといわれるわけです。そこでサムエルはエッサイの7人の息子たちに会うのですけれども、王にふさわしいものを見いだすことができません。サムエルがエッサイに尋ねます。すると実はもうひとりいる。それは一番末の息子で、「羊の番をして」いて今ここにはいないという。これが後のダビデ王であります。神と人とに愛された王ダビデは羊の群れの番をするものであったわけです。

「羊の群れの番をしていた」、あの羊飼いたちが、ベツレヘムに生まれたイエス様のもとへと招かれたのは、ほかでもないこの羊飼いダビデが王としてサムエルに見出されたあの出来事を二重写しにして見せているのです。

羊飼いたちの登場は、この幼子イエス様が、確かにあのダビデのような王としてお生まれになったことを知らせます。いえ、ダビデ以上に神様のみ心を確かに実現する。そういうお方としてイエス様がお生まれになったということを表している。羊飼いである彼らは、このイエス様の誕生の場面に呼び出されると、そのままで神様の一つのメッセージを伝える者であるわけです。

そして、また同時に、この羊飼いたちがここに呼び出されているということは、その神様のみ心とは何かということをも示しています。このイエス様の誕生の時には、羊飼いたちは、ただこの世界の大きな空の下で、誰にも知られることなく、自分たちの小さな務めに生きていたわけです。誰から認められるでもない、多くの報酬が期待できるわけでもない。辛い仕事をただ、自分の務めとして引き受けている。イエス様の時代には、羊飼いというのは、あまりいい仕事とは考えられていませんでしたし、実際に蔑まれたりした。その彼らは誰よりも早く、この救い主の誕生の知らせをいただいたのでありました。

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

小さきものに注がれる神さまのまなざし

神様は私たちの小ささ、私たちの弱さ、貧しさ、そして忙しさの、その真ん中においでになられる。私たちがどれだけ社会的な地位や名誉、あるいは財産を持っているかというようなこと、そういうこの世的な、社会的な価値観のもとに恵みが与えられるというのではない。むしろ、小ささとか貧しさとか、取るに足りないような者のところに神様の愛のまなざしが注がれている。

私たちは、どうかすると自分の人生の舞台に豪華な家とか車とかを望むものです。そしてセレブに生きるものがより恵まれたものだと思いがちですけれど、神様のまなざしは全く違うというのです。むしろ、価値のないと思われるものが神様の恵みにあずかる。そういう神様のまなざしを、この羊飼いたちが示すことになったのです。

その恵みは一体、私たちに何をもたらすのでしょうか。急にお金持ちになるか。何か今まで顧みられなかった社会の片隅にいたものが、表舞台へと引っ張り出されるというのでしょうか。いや、羊飼いたちは、急いで出かけて行って、このイエス様にお会いする。そうして、喜びにみちて、神を賛美しながら帰っていったのです。

「なんだ、つまらない。彼らはまた同じ羊飼いなのか。」と思うかもしれませんが、そうではありません。この羊飼いたちは、自分たちがたった一度のこの人生を生きる自分たち自身であることを何よりも喜びのうちに生き始めている。これが、私たちに主イエスが与えられたことの深い意味だと思う。

「あなたのために、救い主がお生まれになった」

イエス様は私たちのために与えられた神様の愛そのものです。私たちは、この神様の愛によって生かされています。イエス様とのつながりのなかで生かされる、そういう人生、そういう舞台に呼び出されるということです。

あなたのために

私たち自身は、きっといつだって自分の人生のなかでは主人公となって、神様を求め、神様を探している。神様どうして、このことを助けて下さらないのか。どこに神様がおいでなのかと、私たちは神様を探し求めるのです。けれども、今日、私たちは、神様が私たちを神様の舞台へと呼び出されていう不思議を知らされます。そして、神様は今日私たちのために見出される姿になって下さった。貧しく、飼い葉おけに寝かされた主イエスは、私たちがもっとも孤独で、一人きりで、何も見えなくなるそういう場所にたたずむ時にこそ、私たちの最も近くにいてくださることを示しておられるのです。

主イエスは、ここに、いてくださる。あなたと共に、あなたのために。

私たちは、それぞれにこの舞台に呼び出される。私たちはそれぞれに配役をいただいています。けれども、この舞台は私の物語ではないし、私が主人公でさえない。この舞台はその全体が主の栄光を告げ知らせるもの。主人公は私たちではなく、お生まれになられたイエス様です。しかし、このイエス様の存在とその物語によって、私たちはこの主人公に結ばれて、意味ある命を生かされる。私を私自身としていちばんよく知っていてくださって、私自身として生きることを許し、支えてくださり、私の働きを求めてくださるのです。あの羊飼いたちが、主をあがめ、神様を賛美する命へ生かされていったように、私たちはみな、この幼子の誕生を聞いて、深く神様にとらえられ、この自分のすべてがただ主によって報いられる喜びをいただいくのです。そして、私たちもまた主を賛美し、証するものとされるのです。

この一年間も、私たちの教会はたくさんの証をもった方々を主のみもとにお送りしました。今は目に見える形ではここにおられません。しかし、そのお一人おひとりの人生はみな輝いている。それは、その方の人生の只中に主がおられるからです。あの方も、この方も、みな主を証するものです。今も変わらず、イエス様を中心としたこの舞台の上で生かされていることを私たちも知っている。あの天の軍勢とともに神様の栄光をうたうものたちのなかにいて、私たちとともにうたっていることだと思う。私たちはみなこの主を証する命へ生かされている。

今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。「あなたのために」主がおいでくださった。

このみ言葉によって、主が整え、用意されたあたらしい舞台に私たちは呼び出されていきます。主をたたえ、主の証人としてこの舞台に生かされていきたいものです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年12月23日 クリスマス洗礼・堅信・聖餐礼拝)