ルカによる福音書 5: 1-11
はじめの祈り
お祈りいたします。天の神様、今日このようにして武蔵野教会において、あなたに集められた皆さんと共に御言葉に聴き、あなたを賛美することが許されましたことを心より感謝いたします。どうかこの語る者を清めて用い、ここにいるお一人おひとりにあなたがお語りください。時を同じくしてもたれています保谷教会、他の教会の礼拝のうえにもあなたの豊かな御恵みがありますように。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈り致します。アーメン。
自己紹介
はじめまして、昨年4月から日本福音ルーテル保谷教会の副牧師として、働きが与えられています伊藤早奈(いとうさあな)と申します。健康上の理由があり、働きが制限されることが多く、また車椅子のため働きが与えられる建物にも制限があることが多いので、いつも私はこのような体で何ができるのか、私が牧師になって本当にいいのか。そんな問いを持ちながら、それでも神様に用いて頂けるのなら。と祈り歩んでいます。その中で、たくさんの方の助けにより、現在、西東京市にある東京老人ホームにおいても働きが与えられております。東京老人ホームにおいての働きとしては、ホームで毎朝行なわれている朝の礼拝の司式と説教の奉仕を毎週火曜日と、その他、礼拝にかんすることに関わらせて頂いています。
ホームの礼拝に関わる中で、昔からルーテル教会と共に歩んできた方々のお話や全く教会に行ったこともなかった方がホームで御言葉に出会い、また人と出会い、毎朝目を輝かせて私に、その喜びが溢れていることを語ってくださる話を聞くことを通し、私たち一人ひとりに今この瞬間も御言葉を通し生きて働いてくださる神様を実感し感謝しています。
また、ホームにおいては、おもに特別養護老人ホームめぐみ園において、各個室の方を訪問しお話を聞いたり、言葉さえも自分では発することもできない方々と共に時を過ごします。私は、牧師として「ここに主が共におられます」「あなたは一人ではありません」ということを一人ひとりの方に、言語だけではなく神様から与えられている「ことば」「メッセージ」として伝えることに用いられていることを、今実感しています。
また、老いや病など、自分ではどうしようもないことに出会い、自分ではどうしてもわりきれない、不安の中にいる方々が、自分では何か分からないことであってもそれをそのまま受け止めてくださっており、意味あることとしている方がおられることを知らされることを必要とされているのだと感じています。それは、ここにいる私たち一人ひとり持っているものなのかもしれません。しかし、私たち一人ひとりが神様を必要とする前から、神様は一人ひとりを必要とされているのです。
ある日、私は一人の利用者の女性からこのような質問を受けました。「先生、先生は何でいつもそんなに明るいの?」そして、「自分の病気が進行していくという現実があるのに。。。普通明るくなれないよね」その質問をした女性はやはり、20代後半から進行性の病のため、今現在は50代半ばにして、老人ホームで生活を必要とされ入居されています。「どうしてそんなに明るいの?」 その質問に一瞬戸惑いましたが、私は無理に明るくしているわけではなく、主がこのままの私で生きてもいいと言ってくださり、共に歩んでくださるからなんだと、その質問を受けて気付くことができました。このようにいろいろな出会いを通し日々新たにされています。
また、保谷教会の副牧師として、昨年11月には東中国・四国地区の信徒大会の奉仕者として、広島教会に招いて頂いたり、その時、東京の病院で入院中知り合った松山にいる難病の方の家を訪問できたり、また、今日はこのようにして武蔵野教会の皆さんに出会う機会が与えられ教会で説教奉仕をさせて頂いています。
それから日本FEBC放送での仕事が与えられるなど、自分では思いもよらない働きが次々と与えられ、驚いています。しかし、これら一つひとつのことにも主が共にいてくださり、主が用いてくださっていることを確信するときに、私は自分が「牧会」という翼を主によって与えられ、自由に安心して、飛び立っているのではないかと感じています。
主に用いられるということ
主に用いられるとはどういうことなのでしょうか。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と主は言われます。
主イエスはゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞くために、群衆が主イエスのもとへと押し寄せて来ます。主イエスがおられるその場所に漁を終え、網を洗っている漁師がいました。イエス様の目には確かに漁師たちも見えるのです。しかし、漁師たちには主イエスもそこに集まる群衆さえも見えないのです。目には入っていたのかもしれませんが、漁師たちはただ、漁の為に使っていた網を洗っているだけなのです。しかし、主イエスは漁師を招きます、孤独にはしておかないのです。
舟を私のために岸から少し漕ぎ出してくださいと、共に舟に乗って、私を運ぶようにと漁師であるシモンに頼まれるのです。そして、主は腰を降ろし、全ての群衆に語りかけるのです。それは、同じ舟にいたシモンやそこにいた漁師たちにも語られたのです。
そして話し終わったときに、もう一度シモンに静かに語りかけます。「舟を漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。夜通し苦労して漁をしたにもかかわらず、何も捕れずに岸へと帰ってきて、疲労と絶望感でいっぱいだったかもしれません。「もしかしたら」という気持ちがあったとしても、今群衆と自分に話をしてくれたこの方のいうことだから大丈夫と思ったわけでもないと思います。半信半疑だけど、少し期待をもって、網を降ろします。もしかしたらもう、自分ではどうしようもないから自棄(やけ)になっていたのかもしれません。
すると、一そうの舟にも乗り切れないほどたくさんの魚がかかります。驚くことしかできません。主によって用いられるとき、そのことを私たち人間の予想できる範囲には収まりきれず、私たちはただ、驚くことしかできないのです。
そして、主イエスに用いられるとき、そのときは一人ではなく必ず仲間が与えられます。一人で孤独になることはないのです。それは、シモンが自分の舟では魚が乗り切らなくて、仲間の舟に手伝ってもらったように。
恐れることはない
シモンの舟に主イエスは共におられます。驚きでいっぱいのシモンや他の漁師たちも主イエスを見上げます。主イエスはシモンに言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。シモンもそこにいたゼベダイの子ヤコブもヨハネも、全てを捨てて、イエス様へ従いました。「すべて」とは、所有していたもの、仕事そして今迄もっていた「恐れや不安」それら全てのことだったのでしょう。
主イエスはシモンたち漁師を、全く別の職業に召したのではなく、「漁師」として召されます。特別なことではなく、その人の日常の中で、主は一人ひとりを用いられるのです。
私たちは、日常の中で、自分の力ではどうしようもないことに出会うとき、驚き嘆き、また悲しむしなくどうしようもないと思うことがたくさんあります。しかし、そのようなとき、主は「恐れることはない。私が共にいるではないか」とやさしく語りかけてくださいます。
また、私たちを召してくださるとき、それは特別なことを突然しなさいと言うのではなく、私たちのいる、今ここでのありのままの私たちを必要としてくださるのです。
全て一つひとつのことが主を見上げ、主に用いられているとき、不安や恐れにとらわれているのではなく、自由に勇気をもって、主と共に成されていくのではないでしょうか。
それがたとえ、自分の思っていた答えとは違っていても、予想を越えていても。主がお用いくださるのです。
主がお用いくださるは、今ここにいる私たち一人ひとりです。何の特別なことではありません、今、あなたを主は必要とされているのです。
主は言われます。「恐れることはない。私があなたを選んだのだ。私はあなたと共にいます。」
おわりの祈り
祈りましょう。天の神様、私たち一人ひとりが今生きているこの場所で、ありのままをあなたに召されていることを御言葉によって聴きました。ありがとうございます。いつもあなたが共にいてくださることを覚え、勇気をもって、自分を生きていくことができますようあなたが強めてください。あなたによって用いられ生かされていることを感謝し、このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈り致します。アーメン。
(2004年1月25日 顕現節第4主日礼拝説教)
伊藤早奈先生は、2003年3月に神学校を卒業し、教職按手を受けられました。現在は保谷教会副牧師・東京老人ホームチャプレンとして働いておられます。