説教 「天における喜び」 大柴譲治

ルカによる福音書 15:1-10

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

こどもさんびか

ルターは「讃美歌は会衆の説教である」と言いました。今歌いました「小さい羊が家をはなれ」(さんびか21-200)はこどもさんびかにもありますが(72番)、その歌詞をかみしめるときルターの言葉は確かに本当であると感じます。先週も礼拝でこどもさんびかから「主に従いゆくは いかによろこばしき」を歌いました。幼い頃から親しんできた讃美歌を歌うことによって私たちの心は童心に戻り、自然に神さまに向かって開かれてゆくように思います。主イエスは「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と言われましたが、讃美歌というものは私たちの中に幼子のように神さまに信頼する心を呼び起こしてくれるもののように思います。

敬老主日にあたって

本日私たちは敬老主日を守っています。モーセの十戒の第四戒に「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである」とあります。十戒の中で祝福を伴う戒めはこの第四戒だけであり、そこからもこの戒めがいかに特別な意味を持っているかが分かります。人生の中で神さまの豊かな祝福を得るために、この第四戒はとても重要な役割を持っています。ルターはこれを『小教理問答』の中で次のように解説しています。「わたしたちは、神を恐れ、愛すべきです。それでわたしたちは、両親やめうえの人を軽んじたり、おこらせたりせず、むしろその人々をとうとび、その人々につかえ、ききしたがい、愛し、またうやまうのです」。信仰の先輩たちを尊び、仕え、聴き従い、愛し、敬うこと。ここにこそ神の賜る人生の祝福があるのです。

本日は特に、私たちの教会に深く関わりのある方で80歳を越えておられる51名の方を覚えて、そのお名前を週報の別紙に記させていただきました。お一人おひとりの上に豊かな祝福を祈りつつ、み言葉の解き明かしをさせていただきます。

かけがえのない絆

先ほど歌いました讃美歌「小さい羊が家をはなれ」は私たちの中に様々な思いを呼び覚ましてくれます。私たちには人生の途上で道に迷ったこと、迷子になったことがあると思います。その時の気持ちを思い起こします。私が福山の牧師をしていた頃ですが、息子の翔がまだ2歳くらいの頃、大きなスーパーストアで迷子になったことがありました。必死になって30分ほど探し回ったでしょうか、見つけることができたときは本当にホッとしました。当人は迷子になったことも自覚せず、おもちゃ売り場で遊んでいました。このイエスさまの譬えの中で、羊飼いが必死になって迷子の羊を探すのは、その羊が彼にとってかけがえのないものであり、決して失われてはならないものであるからであります。そのようにイエスさまにとって私たち一人ひとりがかけがえのない大切な存在なのです。

そう思ってこの礼拝堂のステンドグラスを見ますと、羊飼いの胸に抱かれる子羊の安堵の思いも分かりますし、子羊をその腕に抱くことができた羊飼いの大きな喜びも伝わってきます。両者をつなぐ確かな絆、心のつながりこそが宝であることが分かります。人生にこのような強く確かな愛の絆を持つことができた者は幸いでありましょう。

詩編23編が伝えるように、主はわたしの羊飼いであって、どのような時にもわたしには乏しいことがないのです。欠けたところがない。わたしの必要をいつも豊かに満たしてくださる。この羊飼いとの絆の回復こそが失われた者が見出された時に祝われる天における喜びなのです。それが先ほどのこどもさんびかにはストレートに歌われていました。

1.小さいひつじが家をはなれ、
ある日とおくへ遊びにいき、
花咲く野原のおもしろさに、
かえる道さえわすれました。

2.けれどもやがて夜になると、
あたりは暗くさびしくなり、
うちがこいしく羊はいま、
声も悲しくないています。

3.なさけの深いひつじかいは、
この子羊のあとをたずね、
遠くの山々、たにそこまで、
迷子の羊をさがしました。

4.とうとう優しい羊飼いは、
迷子の羊を見つけました。
抱かれて帰るこの羊は、
喜ばしさにおどりました。

『病者の祈り/人生の祝福』

今日の敬老主日にあたって教会員の石栗聖子姉が今年も心をこめて敬老カードをご準備くださいました。そこには「われらは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)とのみ言葉が記されています。その敬老カードに添えて牧師からの敬老メッセージとして一つの詩を選ばせていただきました。これはニーヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれた一人の無名患者による詩で、「病者の祈り」または「人生の祝福」と題されるものです。大変印象的な詩ですので皆さんにもご紹介させてください。

「主の平安。今年も共に敬老主日を迎えることができたことを感謝いたします。本日の礼拝で皆さまのお名前を覚えて祈らせていただきました。今年はニューヨークのある病院の壁に書かれていた作者不詳の詩をご一緒に味わいたいと思います。神さまの祝福がお一人おひとりの上に豊かにありますように祈りつつ。シャローム!  2007年9月16日 敬老主日に日本福音ルーテルむさしの教会 大柴譲治

『人生の祝福』

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった。

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた。

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
命を授かった。

求めたものは一つとして
与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言いあらわせない祈りは
すべてかなえられた。

私はあらゆる人生の中で
もっとも祝福されたのだ。

(ニーヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれた詩・作者不祥 )

大切なところは、「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは全て聞きとどけられた」という認識の転換にあると私は思います。いやこれは、認識の転換というよりも主体の転換と言った方がよいかもしれません。自分の求めるものを中心とするところから神が与えて下さったものを中心とする主体の転換です。自分の求めた祈りは一つも答えられなかったが、別の形で願いはすべて聞き届けられたというのです。これは2コリント12章でパウロが肉体のトゲを取り除いてくださいと祈ったにもかかわらずそれは取り除かれず、逆にその痛みを背負う中で「わが恵み汝に足れり、わが力は弱きうちに全うせらるればなり」というキリストの声が聞こえたということを私たちに想起させてくれます。

「神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言いあらわせない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人生の中で、もっとも祝福されたのだ」と病者は告げています。このような信仰は、迷子の羊が羊飼いによって見出された時に与えられるものであると私は思います。求めたものが一つとして与えられない苦しみや悲しみの中で、しかし「主の恵みわれに足れり。主は我が牧者であって、わたしには乏しいことがない」ということを知らされる時、それは羊飼いが迷子の私たちをそのみ腕にしっかりと抱きとめてくださった時なのだと思います。その羊飼いとの信頼の絆の中で、天における最高の喜び、人生における最大の祝福を私たちはキリストを通して与えられるのです。

そのことを私たちの信仰の先輩たちは、その人生を通して私たちに証ししてくださっているのだと思います。今日は東教区の若きルーサーリーグのメンバーたちも出席してくださっていますが、このキリストによる神の祝福を前の世代から後の世代へと見える形で継承してゆくこと、それが私たちに今日与えられているミッションでありましょう。

私たちを見出すためにあの十字架の上ですべてを捨ててくださった羊飼いイエスさまの堅い絆を味わいながら、ご一緒に天における祝宴の喜びの中に、人生の祝福の光の下、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年9月16日 敬老主日礼拝)