ルカ福音書 17: 1-10
新共同訳聖書では本日の日課には「赦し、信仰、奉仕」という小見出しがついていますが、内容から言えば四つの教えが集められています。語りかけられているのは弟子たち。背後には当時のルカの属する教会のリーダシップ問題があったと推測される箇所です。
問題1~「躓き」
まず、1-2節。「躓き」についての教えですが、これは古いメンバーに新しいメンバーが躓くことのないよう警告している箇所です。「躓きは避けられない」。「躓き」とは「スキャンダル」という言葉の語源になった言葉ですが、口語訳聖書では「罪の誘惑」となっていました。確かに信仰を鍛える試練としての躓きという側面があるでしょうが、それをもたらす者は不幸なのです。「罪」とは「的外れ」を意味しますから、神さまの方向から向きをそらす誘惑(躓き)を信仰者に与える者、いわば「サタン的な働き」をする者は禍いである。「信仰のベテラン」が「初心者」に神をまっすぐに見上げることを妨げるとしたらそれはゆゆしき事態だと言うのです。「これらの小さい者の一人」こそが神さまの目には大切だからです。「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」とはすさまじい言い方です。小さい者が一人として失われてはならないのだという神さまの断固たる決意のようなものを感じます。私たちはこのような言葉を聞きますとなにか辛い気持ちになります。信仰暦は長くても信仰の質が伴わないと感じるからです。かえって、洗礼を受けた時のあの熱く初々しい燃え上がるような思いを持っていた頃の方が純粋であり、質的にも高かったのではないかとさえ思える。信仰の先輩として私たちに誇るところは何もないばかりか、むしろ躓きを与えてしまっているのではないか。自分では気づかないで、先輩面をして信仰暦の長さを誇っているように見えているとしたら、それこそ周囲に大きな「躓き」を与えていることになります。私たちは自分がそのように思えて、重く暗い気持ちになるのです。
問題2~「赦し」
次は第2の問題。3-4節。これも信仰者同士の関係を扱っています。主は、罪を犯したらそれを戒めるべきこと、そして悔い改めたら赦すべきことを命じている。しかも「日に七回」という表現で相手を徹底的に赦すべきことを求めておられる。日に七回というのは、起きている時間を考えますと平均して二時間に一回です。つまりそれは、自分に対して繰り返し罪を犯し続けているということ。それを赦してゆく。聖書では「七」は完全数ですから、無限に赦すことを主は求めておられる。マタイの並行箇所ではもっと徹底的で、「七を七十倍するまで赦しなさい」とあります(18:21)。しかし、そのようなことが実際私たちに可能なのでしょうか。「赦す」ということの難しさを私たちは経験的によく知っています。婦人会や聖研などでも何度も話題になったことの一つに、主の祈りの「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」という一節があります。どうしてもここを祈ることができない、どうしても赦せない人がいる。この部分にひっかかってしまう人は多い。自分のことならまだしも愛する家族になされた仕打ちは赦せない。私はそのような言葉を何度も聞いて参りました。
しかし、見方を変えますと、私たちは五十歩百歩ではないか。私たちはおそらく同じことを他者に対して行っているのです。他人の目のおがくずは見えても自分の目の丸太は見えないからです。私のことを「あいつ、断じて赦せない」、そう思っている人もいるかもしれない。いや、きっといるのです。私たちは、人の足を踏んだときの痛みはすぐ忘れてしまいますが、自分が踏まれたときの痛みはいつまでも覚えているものだからです。知らないところで、無意識的に、鈍感にも、私たちは罪を犯し続けている。あの人だけは赦せないという言葉は私に向けられているのかもしれない。そこでは「目には目を、歯には歯を」の世界になります。もっともこの戒めは「同害報復法」と言って復讐がエスカレートすることを戒める律法なのですが、私たちは復讐が容易にエスカレートしてゆくことを知っています。目をやられても歯を折られても相手の命まで奪ってゆこうとする現実がある。憎しみや怒りや敵意は容易に燃え上がってゆく。まったくの悪循環です。
私たちはいったいどこでそのような悪循環から逃れることができるのか。それはあの主の十字架の主を仰ぎ見る以外にない。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と語られた言葉は、それを語ってくださったお方の生と死から切り離すことはできない。自分を殺そうとする者のために、主は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と祈ってくださった。ここに私たちの突破口がある。憎しみや怒りからの脱出路がある。私たちを徹底的に引き受け、赦すためにご自分を捨ててくださったお方の愛の中に、悪の循環を断ち切ってくださる力があるのです。
私たちは主を十字架につけたのは私たち自身の怒りであり敵意であったということを知らねばならない。私たちの「あいつは絶対に赦せない」という思いがキリストを殺したのです。パウロはキリストは「十字架によって敵意を滅ぼされ」たと書いている(エフェソ2:14-16)。主イエス・キリストの十字架のゆえに私たちは悔い改めることができる。方向転換することができる。的をはずしていたのをもう一度正しい「的(=神)」を見据えることができる。詩編119:164に歌われているように、キリストのゆえに、「日に七たび、わたしはあなたを賛美します。あなたの正しい裁きのゆえに」と告白することができるのです。
祭司的な交わりへの招き
もう一度、3節を注意深く見てみたいと思います。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とある。私たちは4節ばかりに注目してしまい、3節を見過ごすことが多いのではないかと思います。赦しの難しさに目がいくからです。しかし実は、3節が4節以上に大切なのではないか。兄弟が罪を犯したらいさめるべきこと、そして悔い改めたら赦すべきことが語られています。ここでは何の罪かは言及されていない。神から離れてゆくことが「罪」です。兄弟の罪を知ったらほっておかずに、正しい方向に方向転換するよう兄弟に向かって関わりを持ち続けなよと語られている。そこでは無関心であってはならないのです。一人の小さな兄弟の存在がとても大切なのです。かつてマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」と言いました。神への方向転換が実現するように、どこまでも相手と関わり続けなさいと言われている。ここには交わりへの招きが語られているのです。私たちは裁かれることによっては悔い改めは起こらない。むしろ、裁かれることによっては心を閉ざし、反抗する気持ちが起こるだけです。愛されること、受け入れられること、赦されることの中でしか悔い改めは起こらない。私たちは互いに神の福音(愛、受容、赦し)のみ言葉を兄弟姉妹に向かって伝え合う、そのような祭司としての役割を与えられているのです。それをルターは「全信徒祭司」と呼びました。
ルターはあの有名な九十五箇条の提題の最初をこのような言葉で始めます。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲し給うたのである」。これはとりもなおさず、私たちが互いにキリストのみ言葉を互いにとりなし合い、祈りをとりなし合う、そのような交わりの中に置かれていることを示しています。私たちの全生涯は悔い改めなのです。互いにみ言葉をとりつぐことの中で、罪を互いに戒め合い、悔い改め、赦し合う、そのような交わりを主はここで求めておられるのだと思います。
問題3~自信を失った使徒たち、リーダーシップの問題
まさにそこから第3の問題が出てきます。「使徒たち」が主に問います。「わたしどもの信仰を増してください」と。「どうしても赦せない」という気持ちを彼らも持っていて信仰を増し加えてくださいと願っているのでしょうか。そうかもしれません。しかし私には、そこには初代教会におけるリーダシップの問題が絡んでいたと読める。なぜならルカはここであえて「使徒たち」という言葉を使っているからです。「使徒」とは「遣わされた者、派遣された者」という意味ですが、初代教会の中では特にイエスの直弟子であった一二人を指しています。彼らは教会のリーダーでした。しかし、彼らは教会をまとめてゆこうとして大きな困難に直面したに違いない。パウロもまた自分はキリストに立てられた「使徒」であると語っています。パウロの手紙を読むと教会が問題だらけであったことがよく分かります。神の前に義人は一人もいない。教会もまた罪人の群れだということがよく分かります。そのような現実の中で努力することに疲れ果てて、ちっともよくなってゆかない状況の中でもう自分はダメだと思ったことが使徒たちにも何度もあったのではなかったか。自分の信仰やリーダーシップに自信を失っている。
主はそのような使徒たちに、そしてまた厳しい現実の中でともすれば自信を失いがちな私たちに向かってこう言われるのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。ギリシャ語では「もし~」という言い方には二つあって、事実と反する仮定法と事実に即した仮定法というものがあります。例えば、「もし私があなただとすれば」という言い方は前者、つまり事実と異なる状況についての言い方ですが、「もしイエスが私の救い主であるならば」という言い方は事実に沿った状況を現しています。ここで「もしあなたがたがからし種一粒ほどの信仰があれば」という言い方は後者の言い方なのです。つまり、イエスさまはここで使徒たちに、「事実、あなたがたの中には既にからし種一粒ほどの信仰であったとしても真実の信仰が与えられているのだ」と告げておられるのです。
これは何を意味するのか。自分の無力さや迷いや自信のなさの中で主に「わたしたちの」信仰を増し加えてくださいと願った彼らは、自分の信仰しか見ていないということを示しています。しかし信仰は人間の業ではなくて神さまの業です。信仰とは、ルターが繰り返して言うように、私たちにおける神さまのみ業なのです。私たちはそのような神さまのみ業にサレンダーする他ない。無条件降参し、すべてをあけわたす以外にないのです。そのことを主は「からし種一粒ほどの信仰」という言葉で語っている。「あなたがたのうちには既に神の救いのみ業が始まっている。それがどんなに小さいものに見えたとしても、既に神があなたがたを選び、キリスト者として立てた。だから、神に信頼しなさい。そして神にすべてを委ね、何事にも神のみ心を求めてゆきなさい」。そう主は使徒たちに、そしてまた私たちに告げておられるのです。
問題4~自信過剰の問題、「謙遜さ」
第4の問題は第3の問題の正反対です。ここまでは自信をなくした使徒たちが出てきましたが、ここでは自信過剰の、僕としての謙遜さを失った信仰者の姿が描かれています。主人はあくまでも神さまであり、キリストなのです。私たちはキリストに服従し、仕える僕に過ぎない。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。自分がさも何ものかであるかのように感じ、いとも簡単に思い上がってしまう私たちは打ち砕かれてゆく必要があるのです。自信を失ってしょぼんとした私たちには主は神のみ業に信頼すべきこと、神のみ業に目を向けることを語り、自信過剰で高慢になってしまう私たちを主は「お前たちは取るに足りない僕にすぎない」のだと戒めておられるのです。創造主なるお方の前では一塊の被造物にすぎないと言う。本当の信仰は私たちの傲慢さを打ち砕き、謙遜にします。
本日私たちは聖餐式に招かれています。私たちのためにご自分の身体を裂き、ご自身の血を新しい契約として与えてくださった十字架の主の謙遜を覚えます。神が人となって十字架にかかってくださった。神の痛みの中に神の深い愛がある。そのことをご一緒に味わいたいと思います。
お一人おひとりの上に神さまの聖霊の力が豊かに注がれますように。アーメン。
(1998年10月04日)