この礼拝堂の持つ力
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」
これは私たちが長く親しんできた口語訳聖書の詩編23編です。この礼拝堂は1958(昭和33)年に建てられ、翌年に米国から寄贈された「羊飼いのステンドグラス」が設置されました。以来そのステンドグラスは「眼で見る説教」として、主が私たちの羊飼いであり、私たちを必ず緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴ってくださること、たとえどのような状況にあっても主は名前をもって呼びかけ私たち一人ひとりを養ってくださっていることを、眼に見えるかたちで示してきました。この礼拝堂は主のご臨在を強く感じさせてくれる場であり、静かで温かな空気に満たされた祈りの空間であると思います。このような礼拝堂に集うことができる幸いを共に感謝したいと思います。
「はっきり言っておく」という枕詞
本日の主題詩編は詩編23編。福音書は「わたしはよい羊飼いである」と反復されているヨハネ10章が与えられています。「はっきり言っておく」という言葉に最初に注目しましょう(1節と7節)。主は大切なことを告げる前に枕詞のようにそう語られることが多い。調べてみますとその表現は福音書には74回も出てきます(マルコ13回、ルカ6回、マタイ30回、ヨハネ25回)。
この「はっきり言っておく」という言葉は、ギリシャ語本文(マルコ、マタイ、ルカ)では「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となっています。「アーメン」は私たちが祈りや讃美歌、信仰告白の一番最後に唱える言葉で、「然り」「御意」「真実」「まことにその通り」という意味のヘブル語です。しかもヨハネでは「アーメン、アーメン、わたしは言う」というように二度も「アーメン」という言葉が繰り返されている。これは聴く者の注意を強く引きつける言い方です。これは他に例を見ることができない特徴的な言い方だったようです。
最初の「はっきり言っておく」
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(1-5節)。
羊たちは羊飼いが命がけで自分を守ってくれることを知っているので、その声に安心してついてゆくのです。あのステンドグラスに描かれた三匹の羊の姿にも「羊飼いと羊」の信頼関係が余すところなく描かれています。羊飼いの胸に抱かれた小羊(「迷子の小羊」?)とその両側を歩む羊ですが、その三匹の表情には安心と信頼が描かれているように見えます。胸に抱かれている小羊も左手側の羊も羊飼いの顏を見上げています。右手側の羊は羊飼いの後ろ姿を見て従っています。そこには羊飼いに対する絶対的な信頼関係がある。そのような真の羊飼いと出会うことのできた羊は、真の魂の牧者を持つ者は幸いであります。命がけで自分を守ってくれるということを知っている。
マタイ9:36には、「群衆が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とありますが(マルコ6:34も参照)、主は私たちの現状を見て、その「弱り果て、打ちひしがれている困窮」をご自身の「中心(内蔵)」で受け止めてくださる羊飼いなのです。「深い憐れみ」とは日本語の「断腸の思い」という表現に近い言葉です。
第二の「はっきり言っておく」
本日の福音書で二度目に「アーメン、アーメン、わたしは言う」と語られているのは7節以降です。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(以下略)」(7-16節)。
主ご自身が、羊たちがそこを通って「命」に入ってゆくべき「救いの門」であると宣言されています。そこを通れば私たちは必ず「緑の牧場、いこいの水際」に導かれてゆく。キリストはそのような「門」だというのです。それは「狭き門」であるかもしれません。しかしこの門こそ、私たちが「死の影の谷」を歩むとも「魂」を生きかえらせるための「救いの城門」なのです。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10b-11節)。羊が本当の命を受けるため、しかも豊かに受けるために主は私たちのもとに来てくださった。文字通り「命を賭けて」、失われた羊を見出すため、私たちを悪と滅びから救い出すために主はあの十字架の上でご自身の命を捨ててくださったのです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(14-15節)。そう思う時、あのステンドグラスに描かれた羊飼いには十字架の釘跡はありませんが、私にはそれがその手足に見えてくるようにも思われるのです。
キリストは羊飼いとして私たち羊のことを誰よりも深くご存じです。父と子が一体であるように、羊飼いと羊も一体であると主は言われるのです。私たちがともすれば「羊飼いのない羊のようになって、弱り果て、打ちひしがれてしまう有様」をよくご存じなのです。主イエスはそのような私たち一人ひとりの名前を呼んで、私たちを「緑の牧場、いこいのみぎわ」に伴ってくださる。「わたしには乏しいことがない」とは「何も欠けたところがない」(lack nothing)ということです。それは「シャローム(平安)」という言葉同様に、「完全に満ち足りている状態」を現す言葉です。主は私たちの魂を充ち満ちた愛をもって包んで下さいます。
「か・え・な・い・心」(日野原重明)
上智大学グリーフケア研究所の名誉所長でもある日野原重明先生の、とても印象に残る言葉をある方から伺いました。悲嘆の中にある人に接する時には「か・え・な・い・心」が大切だというのです。「かえない心」? それは「か」「え」「な」「い」という四つの言葉の頭文字をつなげた語です。
最初の「か」は「飾らない」こと。正直に飾らず、真心をもってありのままの姿で接してゆくことを意味しています。次の「え」は「えばらない」こと。相手に対して上から目線ではなく、教えようとする姿勢でもなく、同じ目線の高さで接することが大切だというのです。三番目の「な」は「慰めない」ことで、私はこれに一番ハッとさせられました。悲しんでいる人を何とか慰めてあげたいと私たちは自然に思いますが、悲しみの中で語る言葉を失ってしまうこともあります。それは当然のことです。実は安易な慰めの言葉はそこでは不要なのです。逆に害を与えることすらありましょう。慰めようとする時、実はその慰めを必要としているのは自分の方であったりする。自分が沈黙に耐えられなくなってそのように語ってしまうということがしばしば起こります。「慰めない」とは慰めのないところに踏みとどまり続けることが大切なのです。「かえない」の「い」は「一緒にいる」ということです。悲しむ者のそばに一緒にいる。寄り添うのです。
先日の全国総会では三年間に渡って展開した東日本大震災の救援活動の報告が行われました。「ルーテルとなりびと」の働きです。被災地で「ルーテルさん、ルーテルさん」と呼ばれるほど、その人々に寄り添う姿勢であり続けたその働きは、まことに頭が下がるものでありました。喪失の悲しみや空しさの中にある人と一緒にそこに居続けることなのです。私たち自身も、振り返って見ると、人生において深い嘆き悲しみの中にあった時にも、共にいてくれる人の存在に大きく支えられてきたことを思い起こすことができると思います。
羊飼いキリスト
「か・え・な・い・心」、「飾らず、えばらず、慰めず、一緒にいる」、そのような「心」を持って共にあり続けること、これが求められています。そして実はこのような生き方を最後まで貫いてくださったのが、私たちのためにあの十字架にまで架かってくださった主イエス・キリストだったということに気づかされます。キリストは飾らず、えばらず、慰めず(ただ黙って)、十字架の死に至るまで罪人と一緒にいてくださいました。この十字架の釘跡を追ってくださったキリストを見上げる時、私たちに「わたしはよい羊飼いである。わたしはあなたのためにいのちを捨てた」と私たちに向かって呼ばわる羊飼いの声が聞こえてくる。この声によって私たちは真の自己に目覚めることができる。そこに「目覚めよと呼ばわる者の声」を認めることができるのです。
そのことは本日の第二日課であるペトロの手紙が告げていたとおりでした。このことを心に刻みながら、ご一緒にまことの羊飼いの御声に従って新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。
「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(1ペトロ2:22-25)
(2014年05月11日 復活節第三主日礼拝説教)