ルーテル教会は1993年に宣教百年を迎えたが、東教区では記念事業として「証言集」を刊行した。このため教区には編集チーム、各教会には担当者がおかれた。証言の寄稿者は1教会15名とされ、むさしの教会の寄稿者も15名であった(うち9名は召天しておられる)。証言集の編集は大へんな仕事であったようだ。何しろ、企画から「宣教百年東教区証言集」として刊行されるまでに2年を費やしている。この企画には東教区の37教会が全て参加し、掲載された証言は、信徒、牧師、宣教師を含めて452名であった。
証言とは何か、内村鑑三の言葉を借りるなら「余は如何にして基督教徒となりしか」を語ることだと思っている。
ところで私は証言集を読むうちに気付いたことがある。それは執筆者のうち約三分の一の方々が受洗の動機として聖句をあげておられことである。更に驚いたことに、あげられた聖句に共通のものが多いことであった。そこで、私はこれらを丹念に数えてみた。聖書の“何が”我々の心をゆさぶったのかを知ることが出来ると考えたからである。
その結果、とりあげられた頻度の高かった聖句は二つであった。一つは「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)もう一つは「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ福音書15:16)であった。
私共信徒の中には、聖書を学び礼拝に出席し、よくよく考えた末、受洗した方もおられるし、教会の門をたたいてすぐ受洗した方もおられる。死の前に、病床洗礼を受けたかたもおられる。そこには、それぞれ決断があったと思うが、併し、私共は特別な勉強や修行をしたわけではない。ただ選ばれたのである。その基準は一般教養でも社会良識でも聖書についての理解度でもない。私共は自らが決断したと思っているが“そうではない”と聖書は語っている。自分の決断や信仰の確信はいつもゆらいでいるが、選んで下さった方はゆるがぬ方である。
地にある教会(visible church)は社会的な存在である以上、組織や規則や人事や会計のこと等、なすべきことは多い。しかも常に問題を抱えている。だが、教会は主に選ばれた人々の群れなのだから、あれやこれや、あまり思い煩わずに歩んでゆきたいと思う。
(2011年 5月号)