ルカによる福音書 21: 5-19
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。教会暦の一年の終わり
教会の暦でいきますと、一年の最後の日です。世間のカレンダーの一年の終りよりもおよそ一月以上も早く、教会の暦は一年の終りを迎えて、来週からは1年の始まり、待降節第一主日をもって教会の暦の一年が始まる。世の暦に先駆けて、一年の終りを迎え、一年の始まりを迎えるということは、私は良いことだ、意義あることだというふうに思うわけです。それは、世の中のことで言うとどうなりますか。例えば長い間お勤めをして遂に定年退職をした。明日からはもう毎日家にいる、というようになった時に、自分の職場で働いてきた、20年、30年、40年の年月を振り返ってみて、日本風にいうならば、「来し方、行く末を考える」、思うんですね。「来し方、行く末」を思い、ひとしお感慨に耽るというようなことが、起こってくるわけですが、私たちは、そういう意味で言うと、この教会の暦の一年の終りを迎えて、この一年の信仰の歩みを、考えながら、かぎ括弧付きで、この一年「来し方、行く末」過ごしてきた一年と新しい一年を思うときと言うことになるでしょうが、これが世の中の場合とちょっと違うと思うんです。これが今日の主日の主題なのです。与えられた日課があるルカの21章は、マルコの13章、そしてマタイの相当箇所と含めて、小黙示録と言われているところです。小さい黙示録。イエス・キリストが弟子達に世の終りの到来のことを語っておられる箇所として、教会は教会の暦の一年が終わるときにこの箇所を読むことになっている。世の終りの表象ということが語られる。色々なことが書いてありますけれど、このルカ福音書では順番は、面白い順番で書いてあって、世の終りは直ぐには来ないとイエス様がおっしゃった後で、先ずはと言ってお語りになる。直ぐには来ないとイエス様がおっしゃった後で、先ず起こることは、戦争や地震、災害、天の徴があるとおっしゃっている。さらにその前に、そしてだんだん、だんだん遡っていって、そして弟子たちの迫害や、その迫害に弟子達が耐え忍ばなければならないんだということをイエス様は語っていらっしゃるわけです。そういう箇所です。つまり、私たちは、信仰者として、この世界に起こっていること、歴史のなかで起こっていることに関して、いわゆる経済評論とか、政治評論とかとは少し違った角度で、神の前で生きる人間の生き方とでもいうような角度から、信仰的な注目と観察をすると、そこに神がやがてもたらして下さる世の終りの時の徴を読み取る。そういうことに導かれていくということを福音書は教えていますが、もう一つ今日の第一の朗読と第二の朗読、今、われわれ、一緒に読みながら、また違ったことを感じます。あるいは、「みことばの歌」として歌った歌もそうですし、冒頭に大柴先生が用意して下さった教会賛美歌137番もそうですし、どちらもルーテル教会が、教会の賛美歌として、カテゴリーで言うと終末と再臨と上に書いていますが、そういうふうに分類されている賛美歌の中で歌われる、歌い継がれてきた賛美歌です。そこには戦争のこと、天災のこと、迫害のことが出てこない。みことばの歌もそうですが「喜び歌え」「喜び称えよ」「世の終りが近づいて、あなたがたは震え慄け」というメッセージをこのルカの21章からも聴き取らないという、御国の徴を告げながら、しかし、私たちは来し方を考えることによって、行く末を、その行く末と言うより、もっと、もう一つ向こうを見る事を許されていて、それは主が用意してくださる、主を信じる者にとっては喜びの場、ということを見通すことを許されるということになるのだと思うんです。ですから今日のコリントの第一の手紙の15章からの箇所もそうですし、イザヤの52章もそうですけど、どちらも、主のもたらして下さる終りに向けての生き方として、奇しくも、預言者の一人、そしてまた使徒の一人が、キリストにある信仰において証していること、主が弟子達にお語りになったことを、パウロの場合は、聖霊か、なんらかの仕方で、これとはそっくり同じではなくとも、聞き知っていた。世の終りの審判と言うことを知っていた。初代教会のヨハネ黙示録に至るまで、ずうっと温めていくというテーマなんです。迫害がある、しかし、その恐れを耐え忍ぶ人には、というこの今日の段落の最後の言葉が、「忍耐によってあなたがたは命を勝ち取る」、この最後の言葉が、非常に効いているというふうに思うのです。
「(信仰の)確かさ」
一つ難しい話をします。もし難しい話でないと伝わったら成功です。ちょうど『義認の教理に関する共同宣言』が出ていますから、カトリックとプロテスタントがどうして一致ができたかという背景の一つに関わって、そして今日のテーマにも関わるお話をします。テーマは神学的なものなんです。マルチン・ルターの初期の聖書講義の中には、「確かさ」、かぎ括弧を付けて「確かさ」と呼ばれる単語が良く出てきます。私もそういう関係の註解など翻訳しますから、そういう時にはその「確かさ」には、かぎ括弧の中にもう一つ先ず丸括弧を付けて、(信仰の)と入れて、そして「(信仰の)確かさ」と訳します。問題となっているのは、そういう信仰の確かさという意味合いだと言うことをその翻訳に表そうとするのです。それをもう一つ正確にいうならば、あるいは、年を取ってきたせいか、私は、もうちょっと違う案がいいな、いままでそれでやってきたんですが、違うほうがいいな、「(私達に対する神の恵みの働きの)確かさ」、丸括弧の中のほうが長くなりますけど、私達、罪人に対する、神の恵みの働きの確かさ、というふうに補ったほうがいいのかなというふうに思うわけです。私が神学生だった頃から留学した頃まで、プロテスタントの神学者も、カトリックの神学者もこれに注目してきました。特にカトリックの神学者は、ルターが信仰の確かさということを言っているのは、結局、キリスト教信仰を信仰から客観的な姿を失なわせて、自分の主観、自分の信仰が確かなら、救いは確かだというそういう主観的な意味合いを読み取って、結局近代的な要素をもたらしてしまったという批判が聞こえてきます。逆にプロテスタントの神学者からは、ルターにあるこの「信仰の確かさ」という表現は、中世の神学者達に遡っていったら、同じような表現があるだろうかと研究が進められて、一番いいのは、中世のカトリックの神学書の大立者トマス・アクイナスという人が『神学大全』という、日本語に訳すれば、36冊になるような大きな著作を書いているんですから、ライフワークですね。この著作の中にそういう単語が出てくるか、調べたけど、出てこないんですね。ですから、1960年ぐらいのまでのところの頃までのプロテスタントの神学者は、マルチン・ルターの宗教改革の信仰にとって、とても大切さ、「信仰の確かさ」、もうちょっとパラフレイズすれば、「われわれに対する神の恵みの働きの確かさ」というような意味合いの単語がルターにあって、これが宗教改革的信仰の重要な概念だと、強調したのです。しかし中世の神学の大立者のトマス・アクイナスの、あの『神学大全』の著作には、ただの一度もその単語は出てこないではないか。だから、中世の神学と、マルチン・ルターの宗教改革の神学は違う。ルターと中世の神学は対立する。そう結論したのです。それが1965年から神学事情が変わってくる。カトリックの研究者でもプロテスタントの研究者でも、トマス・アクイナスとルターを一緒に研究する、合わせて研究をするというような人たちが出てくると、かつては単語で探したのですが、ルターが非常に強調した「信仰の確かさ」、「神の恵みの働きの確かさ」というような単語がトマス・アクイナスにないじゃないかでは済まないと思うようになったのです。1965年からこのかたの学者達は、ルターが「信仰の確かさ」、「神の恵みの働きの確かさ」として強調した、単語ではなくて、そういう意味合いがトマス・アクイナスの中にあるかどうか、その著作を調べたのです。そしたらトマス・アクイナスの著作の中には、ルターが「信仰の確かさ」というふうに言っているラテン語の単語は一度も出てこないのは確かなんですけど、しかし繰り返してトマス・アクイナスは「希望」という単語を使っている。この「希望」と言う単語は、トマス・アクイナスを正確に読んで訳そうとするには - 創文社から出ている『神学大全』は、どう訳しているか知りませんけども、「トマスとルター」という関係の研究まで読んでいる訳者が訳せば、私、例えば私が訳せば、「希望(の確かさ)」と訳したいですね。トマス・アクイナスは「希望」という単語を使って、希望というのには儚い希望というのもあるわけですが、「希望の確かさ」を意味しようとした。その確かさはなにか、どこにあるか、というと、やはり神の恵みにあるんですね。彼はそれについて「希望とは、神の全能と憐れみに頼って、確実にその神の目標に向かわせるところのものである。希望というのは神の全能と憐れみに頼って、確実に神の目的に向かわせるものである」と言っているのです。希望は人間の希望じゃないですね。人間の希望というのは儚いです。「ああ、こうなると良いな」というのは、これは希望と言えないのですね。勝手気ままな心の思いに過ぎないのです。神学的に例えば、信仰と希望と愛という時に出てくる希望、この希望は、「目に見えるごときは望みではない、本当の望みは目に見えない望みだ」とパウロの言う通り、希望というのは、これは、トマスも説明しているような考えでいいと思います。希望が、希望として確かであるとは、神の全能と憐れみのゆえである。だから希望は確かなのだ、というと、マルチン・ルターが(信仰の)あるいは、(神の恵みの働きの)「確かさ」と表現をして、キリストを信ずる信仰の姿勢を明らかにした、その表現を、同じ単語は、トマス・アクイナスの中にはなくても、実はトマス・アクイナスのあの36巻の著作の中で「希望(の確かさ)」、それも神の全能な憐れみゆえの確かさ、という文脈で登場してくることが分かるんです。で、これがあの『義認の教理についての共同宣言』の背景にあるんです。この単語があるか、ないかということを問題にしているときには、ルターにあって、トマスにない。ルター派の方からすれば、トマスでは駄目なんだから、ルターは「希望」ということをあまり言わない、ということで、すれ違いが起こっていたのです。実はこれらの二つの考え方は信仰的にも、神学的にもある大切な、共通の内容を持っていることが分かってくる。そういう背景がほかにもいろいろ積み重なっていって、聖書の読みが深まって、そして『義認の教理の共同宣言』で、義認の中心的なところは、我々はこういうふうに一致することができたというところまで来たのです。究極の完成を見つめる
そこで、教会の暦の最後の主日です。イエスがお語りになったように、毎年マタイ、マルコ、ルカと聖句の箇所は違いますが、小黙示録と呼ばれる箇所で、イエスが弟子達に向かって、世の終りに向けての様々な徴のことをお語りになる。その箇所をこの主日には読むことになっています。でも、第一の朗読と第二の朗読はそのうえ、慎重に選ばれていると私は思います。我々はイエスがここにおっしゃっているように、歴史の中で、歴史を、なんとなく、流れに乗って生きていくのではなくて、この歴史を見据えて、神の働きの中に、恵みの働きの中に、生きる信仰者として歴史を見据え、その中に神の時の徴を見る目を与えられたいと願いながら、しかしその時の徴、具体的には地震や、戦争などが起こってくるかも知れないけれども、その先に、神がイエス・キリストにおいて約束しておられることが、神の恵みの下における世界の完成だ。破壊や、破滅ではなくて、世の終りが来て破滅するぞということではなくて、それは、まだ前の徴、前触れの徴に過ぎない。終りは、耐え忍ぶ者には、命が与えられる、命を得るということです。イエスの次の言葉ででも分かります。破壊で命を失うわけですが、命を失うことが、この聖句の主題ではなくて、主にある命が、主ご自身の手によって全うされる、ということが、今日の主題です。ですから、一人の人間として、ある人生の節目に立ったときに、来し方、行く末を思うということを、私は別に否定をしようと思うつもりはありません。しかし、それを超えて、そういうときに、この教会暦の最後の日曜日でも、私達が神の恵みの働きにおいて完成される究極の世界に、その望みに注目をすることを許されて、それを幸いのことだと心に刻みたいのです。そして、今日137番の賛美歌作者と、139番の賛美歌の作者とそのような終末の表象の中で、信仰の歌を「我々も喜び迎えよう」と歌い上げたわけです。究極のところは神の恵みにお委ねして、イエス・キリストによって、神の恵みにお委ねして、喜び迎えよう。終りの時を喜んで迎えることができる。世界の終りを、そして、私達一人一人の生涯の歩みの終りをそのように迎えることができる、そのような幸いに呼び出されていたということを心に刻みたいと思います。祈り
お祈りいたします。天の父なる神様、武蔵野教会の兄弟姉妹達と共に教会暦の最後の主日にみことばを与えられて、あなたのそのみことばにおいて、御ひとり子を通して語られたこと、その大きなスケールを心に刻むことができましたことを感謝をいたします。あの信仰の先達が、これらのことを心に刻みながら、歌い上げた賛美歌を今も尚、私達が心を込めて相和して歌うことができるように、どうぞ導いて下さい。主によって感謝して祈ります。
アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2004年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教。岡野悦子神学生によってテープ起こし原稿が作成され、説教者自身に手を入れていただいたものです。)