ルカによる福音書 21: 5-19
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。教会暦の終わりに
教会暦によると本日が聖霊降臨後最終主日、一年の一番最後の日曜日ということになります。来週からはいよいよアドベント(待降節)、クリスマスに備える四週間が始まります。典礼色も来週からは、信仰の成長を表す緑から悔い改めと王の色である紫に変わります。本日与えられた福音は「神殿の崩壊の予告」と「終末の徴」について主イエスが語られている場面です。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」という ~ 節の言葉に焦点を当てて、み言葉に聴いてまいりましょう。
忍耐力を鍛えるために
ここで「忍耐」という言葉は、ギリシャ語では「下にとどまる(ヒュポモネー)」という言葉です。困難な状況の中にあってもその下にしっかりと踏み止まるということです。忍耐とは何か。それは「こらえることであり、たえしのぶこと」(広辞苑)です。耐え難い状況を辛抱し、担い続けてゆくことです。その意味で忍耐には二つの側面がある。外的には困難な状況との闘いであり、内的にはそれは自分との闘い、自らの忍耐力のなさとの闘いとも言えましょう。
次週は賀来先生に説教をお願いしてありますが、1982年~83年、私がこの教会で研修をさせていただいた時、賀来先生は当時神学生だった私や立山先生(現池袋教会牧師)によくこう語られました。「牧師は徒労と失望に慣れなきゃいかんのです」と。これは賀来先生らしいなかなか味わい深い逆説的な言い方です。そして「徒労と失望に慣れなければいけない」というのは何も牧師に限らない。キリスト者すべてに当てはまる事柄でありましょう。その真意は、徒労と失望に慣れて鈍感になるということとは違います。どんなに努力が報われずそれが徒労に終わったとしても、期待が失望に終わったとしても、忍耐してさらに努力し、さらに希望をもって励むべきことを私たち神学生たちに語ってくださったと思います。希望を見失ってはならないという慰めの言葉として響きました。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、今日わたしはリンゴの木を植えよう」というルター的な言葉をも思い起こします。
では、忍耐力をどうすれば鍛えることができるのか。パウロは言っています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5章3~4節)。艱難が忍耐を生むと彼は語る。忍耐は確かに試練によって鍛えられます。スポーツでは肉体的な鍛錬が忍耐力・精神力を鍛える面が確かにあります。そこでは自分に負けてはならないのです。
しかしそこでは「私の」努力、「私の」精神力、「私の」力が問題となる。それは人間の力に頼る忍耐です。しかしパウロの語る忍耐、主イエスの語られる忍耐とは人間が自分の力により頼むということではない。自分の精神力を鍛えるということとは違う。もしそうだとすると行為義認となってしまう。頑張れる人だけが頑張り、頑張れない人は落ちこぼれて失格してしまうということになる。しかし私たちの信じる信仰とはそのような自力本願ではないのです。バベルの塔を築くことではない。本日の日課では、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることに感心している人々に主イエスは言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)。人間の力に頼り、人間の努力によって築かれるものは所詮、バベルの塔と同じ運命にあるのです。
キリストの忍耐力によって
私たちは思い違いをしてはなりません。忍耐とは、自分の力ではなく、上からの力、キリストの愛の力によって与えられる忍耐なのです。キリストを見上げることの中で私たちに外から与えられるような忍耐の力です。パウロが「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言う時はそのような意味で語っている。パウロはここで明らかにキリストの十字架の苦難と死と復活とを想起しています。キリストは苦難の下に踏み止まられた。それは愛のゆえでした。私たちを見捨てず、私たちをかばい、私たちのために犠牲となってくださった。ちょうど親鳥が身を捨てて雛をかばうように、十字架の上に身代わりとなって私たちの罪と恥と死とを背負ってくださった。ここに真実の愛がある。そのようなキリストの血と汗と涙が私たちを雪よりも白く純白に漂白してくださるのです(詩編 篇9節)。そしてこの十字架の中にキリストの愛を知るとき、私たちは悔い改めの涙を流す。自分の愚かさ、無力さ、どうしようもなさにも関わらず、その独り子を賜るほどに私を愛してくださっている神さまの愛を知り、心の底からあふれ出る涙によって私たちは自分の存在の根底から新たにされるのです。
信仰者の忍耐とは自分の力に依り頼むことではありません。自分の十字架を背負う状況の下では誰も自分の力により頼むことはできない。しかし、誰にも忍耐できない状況をキリストが忍耐してくださった。だから私たちは生きることができる。キリストが共に歩んでくださるから私たちはどのようにこの人生が苦難に充ちていても、耐えてゆくことができる。主は言われました。「わたしに従ってきたい者はだれでも自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と。自らの十字架を背負うとはキリストの力に頼ってキリストに服従することなのです。
そして逆境の中でもキリストの与えてくださった希望が私たちを支えます。希望がなければ私たちは忍耐することができない。次のようなみ言葉が私たちを支えます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録 章3~4節)。
私たちは、キリストが十字架を背負ってくださったからキリストにならって困難な状況を忍耐してゆくことができる。踏み止まることができる。それと共に、このような主と共なる現在と未来とに対する確かな慰めの言葉、希望の言葉があるから、私たちは忍耐してゆくことができるのです。
河野通祐兄のご挨拶状
本日は礼拝後、敬愛する河野通祐兄のご葬儀が行われます。河野さんはこの教会の設計者であり、この教会を今日まで大切に支え続けてきてくださったメンバーのお一人でした。8月に胃ガンであることが分かり、9月より車椅子の生活となりましたが、 月 日午後2時 分、 歳のご生涯をご家族の見守られる中、ご自宅で安らかに息を引き取られたのです。後には自分の葬儀や死後のことについて細かく指示の書かれたノートが残されました。また、自分の葬儀に来られなかった人のためにということで次のような挨拶状が原稿用紙二枚に残されていました。河野さんの人と信仰とをよく表していると思われますので、ここに引用させていただきます。「前略。日頃のご無沙汰を心から御詫び申上げます。
この度は突然の私事で失礼申上げますが、去る○月○日私はようやく人間から解放され、神のもとに召されました。
思えばはげしい世の移り変わりの波に翻弄されながらの長い人生でした。大正のデモクラシーのただ中に生れ、不況の嵐の中に社会人として抛り出され、やがて、ナショナリズムの台頭と共に戦争へ、そして敗戦。崩壊してゆく風土とその環境の中で培われた文化に敗戦の惨めさを味わいながら、経済文化の波をかぶり、沈むばかりの悪戦苦闘、どうにか生きてきた○○余年でした。その間、あなた様をはじめ多くの方々と出会い、私の人生を豊かに送らさせて戴きました。
感謝の心で一杯です。有難とうございました。
私は天地を創られ、すべての生物と共に人間をも創られた神の存在を信じて生きて来ました。神は絶対であり、完全であり、永遠であります。ともすれば過を犯しやすい、不完全で有限な私の人間終焉は神の摂理によるものと感謝しております。
いつも孤独な思いに支配されていた私ですが、私より先に妻が召されたことで、より深い孤独感を味わうことになりました。もうそんな淋しさからも解放されました。
今まで子供達とその家族達に囲まれ、また、教会という心の安らぎの場で、心と共にする多くの方々に支えられて生きて来たことは幸せでした。私の最後がどのような姿で終わったのかわかりませんが、私の人生は終わったのです。
長い間のおつきあい、本当に有難とうございました。心から御礼申上げます。 さようなら
○○○○年○○月○○日 河野通祐」
「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と主イエスは言われました。私たちはここに、キリストの忍耐によって命を勝ち取ることができた一人の忠実な信仰者を覚え、神さまに感謝いたしたいと思います。時代的にも個人的にも踏み止まることの困難な中にあって、しかしそれを「証しをする機会」として生かした一人の信仰者のご生涯を覚えます。そして私たちもまた、キリストの十字架を忍ばれた忍耐によって、最後まで、キリストの日を目指して、ご一緒にこの旅を続けてまいりましょう。
お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りします。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年11月25日 聖霊降臨後最終主日 礼拝説教)