「逆巻く湖上を近づいて来られる主」 大柴 譲治

列王記上19:1-21、マタイ福音書14:22-33


<映画『大いなる沈黙へ』>
 この夏、8月6日に私は岩波ホールで上映された映画『大いなる沈黙へ』(原題:Die Groβe Stille。ドイツ語で「大いなる静謐」の意)を観る機会を与えられました。この映画は大入り満員が続いたために引き続き都内各地で上映や全国上映が決まったということですので、ぜひ多くの方にこの映画を観ていただきたいと思います(賀来先生がこの映画についてはこのたよりの中で書いておられます)。
 映画は現実の修道院にカメラが入ってその日常生活を淡々と映し出してゆきます。それはカトリック教会の中でもとりわけ厳格な戒律で有名なグランド・シャルトルーズ修道院(カルトジオ会)。フランスのアルプス山脈の中にある1084年創立の修道院で、人里離れた場所で自給自足の生活をしながら祈りをささげ、質素な日々の生活の中で一生を過ごす30人ほどの修道士たちの日常をカメラが捉えています。監督はドイツ人フィリップ・グルーニング。1984年の許可申請時には「まだ早い」と言われますが、遂に16年後「準備が整った」と撮影許可がおります。ただし「監督一人が入ること、音楽や光やナレーションを入れないこと」という条件付き。監督は約半年間、修道院の一員として独房での生活を送ることになります。凜とした静謐が支配する深い沈黙の中、修道士は相互に会話することもなく礼拝、瞑想、祈りなどの日課を黙々と行ってゆくのです。構想から実に21年を経て実現した中世からの変わらぬ修道院の映像が心に深く染み入ってきます。観る者も自分が一人の修道士になったように感じる映画でした。現代人の心に強く訴えかける不思議な静謐に満ちたドキュメンタリー映画でした。
 修道士たちが寝起きするのは一人一人に割り当てられた小部屋。彼らは一日の大半を机と祈祷用スペース、ベッド
のあるその部屋で過ごします。深夜にも祈祷の時間があるため(19:30に寝て23:30に起き3時間ほどの夜のミサがあり、そして再び3時間ほどの就寝時間)、睡眠時間は分断されています(総計すると修道士の一日は、9時間の祈り、8時間の休み、7時間の肉体労働ないし読書となります)。
 私がこの映画から想起したのは次の言葉でした。「沈黙は言葉の背景を持たずに存在しうるが、言葉は沈黙の背景を持たずには存在できない」(マックス・ピカート、『沈黙の世界』)。『大いなる沈黙へ』という映画のタイトルの通り、映画を観る者は修道士らと共にその「大いなる神の沈黙の声」に耳を澄ませることを求められてゆきます。一週間の内、修道士たちが互いに自由に言葉を発することができるのは日曜日の午後、散歩の時間の4時間だけです。あとはミサでの祈祷以外は声を発せずに沈黙しているのです。映画は黙々と修道院の日常生活を映し出してゆきます、900年間変わらずに継承されてきた日々の生活を。
 時折、聖書の言葉がテロップではさまれてゆきます。その中の一つが本日の旧約聖書の日課、列王記上19章からの言葉でした(11-12節)。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」。
 山を裂き、岩を砕くほどの「大風」が起こっても、その風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかったと語られています。しかしその後に、主の「静かにささやく声」が聞こえたのです。映画はテロップでこう語ります。「静けさ―その中で主が我らの内に語る声を聞け」。神が私たちに向かって「沈黙」(silence)「静謐」(tranquility)「孤独」(solitude)を通して語りかけてくる声に耳を澄ませてゆくこと。『大いなる沈黙へ』はこのことの意味を深く考えさせてくれる169分の映画でした。

<水の上を歩こうとしたペトロ>
 本日の福音書には、「逆巻く湖の上を弟子たちの乗った船にまで向こう側から近づいて来られる主イエスの姿」が記されています。水の上を歩くことなど人間にできることではありません。しかしこのエピソードはマタイだけではなく、マルコとヨハネにも記されていますが、初代教会は迫害の嵐(荒波)の中で、復活の主が共にいてくださることをこのエピソードを通して繰り返し確認していったのでしょう。もしかしたらここには、かつてモーセが真っ二つに分かれた紅海の中に現れた乾いた地を渡って約束の地に向かって民を導いていった「出エジプトの出来事」が重ね合わされているのかもしれません。それは「神の力」による奴隷状態からの「大いなる解放の出来事」でした。
 神にできないことは何もなく、人にはできないことでも神にはできるのです。人間の力が届かないところ、尽きたところにおいて、神さまのみ業が始まってゆきます。本日の嵐の中、逆巻く水の上をイエスさまが弟子たちの乗った船に近づいてゆかれる場面もそのような状況を表していると思われます。初代教会の信者たちは、迫害の嵐の中で、沈みそうになる船(教会を船になぞらえました)の中で生きた心地がしなかったのだと思います。そのような状況の中で、主が逆巻く波の上を船に向かって近づいて来てくださるというこの出来事はどれほど大きな慰めと励ましを初代教会の信者たちに与えたことだったでしょうか。
 もう一度その場面を読んでみましょう。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」

<主を信じて水の上に踏み出したペトロ>
 事は「嵐の中」での出来事です。先の列王記上の19:11-12の言葉と重ね合わせてみるならば、こうなります。山を裂き、岩を砕くような「大風」の中にも、風の後に起こった「地震」の中にも、地震の後に起こった「火」の中にも、主はおられなかったのです。しかし「火」の後に、そこには「静かにささやく声」が聞こえた。「神」の「ささやく声」です。この神からの静かな静寂の声に耳を澄ませることが私たちに求められています。この「声」に耳を澄ませるとき、私たちはどれほど大風や地震や火が私たちに迫り来ようとも、それらを乗り越えてゆくことができる。逆巻く波の上を歩いて、怯える私たちに向こう側から近づいて来てくださる復活の主を見てゆくことができるのだと思うのです。

<詩編46編>
 Die Groβe Stilleという映画の原題(特にStillという語)に関して私は詩編46編を思い起こします。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と歌う詩篇46編は宗教改革者のマルティン・ルターがこれをもとに『神はわがやぐら』という讃美歌(教会讃美歌450番)を作曲したことでもよく知られた詩編です。インマヌエル。これは「万軍の主なる神が我らと共にいます」ということが繰り返し語られている信頼の詩編です。
 その11-12節には次のようにあります。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」。新共同訳聖書では「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と訳されていますが、私たちが長く親しんできた口語訳聖書では11節(10節)はこうなっていました。「静まって、主こそ神であることを知れ」。文語訳聖書ではこうです。「汝ら、しずまりて我の神たるを知れ」。多くの英語訳聖書ではここはstillと訳されています。“Be still, and know that I am God!”(英訳のNKJV/NRSV/NJB等)。『Die Groβe Stille(大いなる静寂)』です。私たちは沈黙の中に聞こえてくる神の声に耳を傾けてゆくのです。「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19:12)。
 逆巻く逆風の中でも向こう側からキリストは近づいて来てくださいます。そして、静かにささやく声で告げておられるのでしょう。「なんじら、静まりて我の神たるを知れ」と。私たちはこのお方のみ声を聞きながら、たとえ現実が逆巻く大波のように見えたとしても、私たちはキリストのみ声がもたらす「平安」と「静けさ/大いなる沈黙」に満たされて、祈りの中に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。
 お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みがありますように。 アーメン。
(2014年8月31日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教)