「夜なら空いているようですよ」と言われて出かけた岩波ホールはすでに満席。この時代、宗教性が臆面もなくむき出しにされた映画になぜ関心が集まるのか、その問いを消化するいとまもなく、スクリーンに、降りしきる雪と三角にとがった濃藍色の屋根と白壁のグランド・シャルトルーズ修道院が映し出されると、疑念は2時間49分の沈黙の流れに吸収された。
フランスアルプスの山麓に世俗から隔絶してひっそりと立つ、カルトジオ会男子修道院は11世紀にケルンのブルーノによって創設されたと解説にあったが、映画を見るとかならずしも世俗の生活とまったく無縁というわけではない。年に二度は家族と会う機会もあり、たまに麓の村まで出かけることもあったようである。世の中のニュースも修道院長から報告を受けたとある。
修道士たちは、ミサを除いて日常の大部分を独房で一人過ごす。はじめて修道志願をする若者も日曜日の昼食後4時間だけ許された会話の時を除いて、孤独と沈黙の生活を延々と生涯にわたって貫くと誓約しなければならない。
だが、その日常があればこそ、生身の人間の営みがかえって鮮やかに浮かび上がる。畑に種を蒔き、台所で野菜を刻み、猫に餌をやり、バリカンで刈り取った頭髪を箒でちりとりに集め、聖書を読み、祈る。そしてストーブに薪を放り込む。その日常が自然の光と音だけで映像化され、生き物としての人間とその内なる精神の世界を見せる。それは聖と俗の絶妙なバランスであり、観る者をして修道院にいるかのような錯覚の世界に誘う。
修道院の孤独と沈黙は、それ自体では意味をもたない。意味を強く感じさせるのは、修道士たちがこの世に生きる人間であることをさらけ出した院内生活のさまと、時折麓の村を訪ねるとき「村の中は注意深く歩くように」との修道院長の憂いの言葉から想像する世間との接触、そして修道院の庭に集まった家族らしい一群の訪問者たちの姿を重ね合わせて、世俗とのつながりがチラリと見えるだけである。だが、それがかえって今の時代にすっかり見えなくなってしまった、孤独と沈黙の世界を対比的に鋭く意識させる。
映画を観た者であって、現代社会は孤独と沈黙が持つ重大な意味を捨ててしまったことを意識しない者はいない。終幕に列王記上19章11〜12節がスクリーンに現れる。「主は『そこに出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし火の中にも主はおられなかった。火の後に静かにささやく声が聞こえた」と。
主はおられないかのように沈黙の中にいます。現代人はこの真実をどこかに置き忘れている。映画『大いなる沈黙へ』は、この真実をこの時代の日常に発見する手がかりかもしれない。
(2014年9月号より)