たより巻頭言「私たちの人生にクロスする神のドラマ」 大柴 譲治

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう。」(ヤコブ4:15)

3月8日(日)の夜、東京教会で行われた日本福音ルーテル教会(JELC)教職授任按手式において四人の牧師が誕生した。四人のうちの二人は小山茂牧師と崔大凡《ちぇてぼん》牧師である。1893年から始まったJELCの116年の歴史の中に、むさしの教会出身の牧師が二人新たに加えられたことになる。神の大いなるみ業に感謝し神を讃美すると共に、ご本人と神学校関係者の労を多としたい。私自身、神のドラマを最前列で観劇させていただいている感がある。4 月1日より、小山牧師は鹿児島・阿久根教会で、崔牧師は熊本にある九州ルーテル学院(旧九州女学院)中学高校でチャプレンとしてのお働きを始められる。お二人のこれからの歩みの上に神の祝福を祈りたい。

按手式に先立ち3月1日(日)に神学校の夕べが守られた。その中で教会讃美歌285番を歌いながら、私には熱いものがこみ上げてきた。2月18日に58歳で天に召された甲府・諏訪教会の平岡正幸牧師から、その福音のバトンを五人の神学校卒業生が引き継いだように感じられたためである。神のみ業はこの地上においても目に見えるかたちで継承されてゆく。すべての業には時があって、神のなさる業は皆その時に適って美しいと言わなければならない。

それにしても思い起こすのは、もう15年以上も前のことになるが、第一回ヒロシマ宗教者平和シンポジウムでのカトリック司教相馬一夫司祭の言葉である。「平和を考える上で、宗教者というものは十年や二十年単位でものを考えていてはダメである。一千年を視野に入れなければならないのだ」と。一千年を視野に入れる!?それが具体的にどのような意味であるのか未だにはっきりしないが、ただこれだけは言えるであろう。神の永遠性の前で人の生命は有限にしか過ぎない。しかしそのようなはかない存在である私たちが神の永遠のみ業に参与することを許されているのである。すべてを神の御心に委ねつつ、私たちは今自分のなすべきことをなしてゆくだけである。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」(ルターの言葉とされている)。

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)。これは昨年の敬老カードに記された聖句である。この地上での生命は、天につながるだけでなく、確かにこの地上においても御心に適う仕方で引き継がれてゆくのである。時はレント(四旬節)。教会暦では、主の十字架の歩みを覚える期節である。自らを吟味しつつ、私たち人間のささやかな人生の上に神のダイナミックなドラマがクロスすることに思いを馳せてゆきたい。

(2009年3月号)