説教『イエスの評判 – 風評被害が広がる中で』 石田 順朗


教会の暦で、12/25のクリスマスより二百年も早くにエジプトで祝われていたと伝わる(キリスト教最初の公認祝日)1月6日の「主の顕現」。それに続く「顕現節」の六週間余の期間は、実は、ひと月遅れで始まる太陽暦の新年1月と重なる -意義深い。


1月の月には14の異名;わが国では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる異名、「睦月」;(新年を親しい人達と親しみ睦み合う);英語の Januaryも、その昔ローマのJanusという神に由来するといわれ、この Janus なる神は全てのものの「始め」を司っていたので1月につけられたと伝わる。

ここでは240もある1月の季語 (連歌、俳諧、俳句で用いられる特定の季節を表す言葉)の中で「御降(おさがり:元旦に降る雨)」があることに留意 = 顕現との関係で。

 
I. マルコは、ガリラヤとその周辺でのイエスの活動開始を述べ、4人の漁師たちを弟子として召された後、早速、ガリラヤ湖畔の漁村「カファルナウムでの一日」を描く(カファルナウムはその後イエスの活動拠点となった)。

 「安息日に会堂に入って教え始められた、」これは、至極尤もな宣教開始であるが、いったい何を教えたのか、その内容は記されていない! ところが −

1 )そこに居合わせた「人々は、その教えに非常に驚いた」と、時の状況を記録。つまりはイエスの教えるしぐさ、話し方(人となり)に驚いたのであろう。

イエスご自身が私たちの傍近くお立ちになり、教えてくださる、そのこと自体が、実は神の顕現(「御降 (おさがり:元旦に降る恵みの雨)」に他ならない。。

これは、テロや気象庁の特別警報以外、大抵のことでは驚かないようになった今日の状況の中で、注目すべき第1点! しかも、命に関わる危険に曝されておののくのではなく、御降(おさがり)の「恵みの雨」にどっぷり浸かることで「驚く」!!

2)加えて、(高慢で頑固な)律法学者の振りまく権威とは違って、イエスが 権威ある者としてお教えになったから。

 この権威が、高飛車に一方的に威嚇的ではなく、説得力がり、頼り甲斐のある、確固としてはいるが、暖かく包み込むような配慮を漂わせていたからである。全くの驚き事。

 

II. でも同時に「イエスの権威」の顕現には、悪の力に堂々と対決し、その悪魔を駆逐する絶大な力を顕し– そのことに、実は、大衆の驚きは一段と深まった。

そもそも「悪霊追放」は「病気の癒し」とは違う ー 今日、意義ぶかい「闘い」。悪霊の攻撃に怖じ惑う事なく、権威をもって悪霊を叱りつけ追放する!(今日、テロや各様の脅しに屈してはならないように!そのため、今日もわたしたちが「主の祈り」で「悪より救い出しため」と祈ることができるように!

 人々は皆驚いて、論じ合った!「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ!この人(イエス)が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」

 イエスの「悪霊追放」という奇跡的で全く驚くべき行動が、実は「権威ある新しい教え」になった。

 宗教、キリスト教、教会、説教、教師、と、実に「教え」が多い中で、それこそ「圧倒的」で「説得力」よろしく、驚くべき行動だ! その行動が「教え」とは!

 教えとは「福音」であり、力、罪を赦す力,復活の力だ!それが顕現された。

 

III. すると、たちまち、イエスの評判がひろまった。

早速(し始めた、そのとき、すぐに:マルコ独特、41回(新約全体では、51回;その2回がここで(1章のここまでに、すでに、3回も)。

「イエスの評判」は「権威ある新しい教え」いや「救いの力」の顕現 – 御降(おさがり)の所為(せい)であり、そのことが、隅々に(至る所へ)行き渡った。[45節の(四方から、「至る所から」と対応する)ガリラヤの全域が、イエスの評判で揺り動かされた!見方によっては、「風評被害」?

こともあろうに新約では、イエスのご降誕前から、それに十字架処刑の最後の最後まで風評被害の続出。ヘロデ王は、イエスの誕生に際して「風評被害」に遭った。イエスの誕生にまつわってはヘロデ王は「不安を抱き」占星述の学者らを派遣したり、子供を皆殺しにした。ヨセフとマリヤのエジプト避難。それに、総督ピラトの尋問から十字架処刑に至るなど、風評被害も多々起ったのは事実。

風評被害の歴史は古い。わが国では、近代では、関東大震災直後のこともあり、最近では、特に福島の「3.11」以降 –

 

今日は『使徒パウロの日』(1/25, 6世紀,フランス・ゴウル州で始まり、大伝道者パウロを覚える日となった)。

ナザレのイエスと面識がなく、元々は、厳格なパリサイ派の一員で、イエスの風評被害に遭い[サウロとして]キリスト信徒たちの迫害に奔走した。

 

しかし、ダマスコへの途上、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光の顕現とともに、イエスの声を聞いた。その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト信徒の執り成しの祈りもあって、目が見えるようになった。こうしてサウロはキリスト教徒パウロとなり、少なくと3回に亘り伝道旅行を敢行、同時に、『ロマ、ガラテヤ書』を始め13書簡 (ヘブルを加えて14) を著す神学者となった。

でも、初代の信徒たちが、イエスの評判(うわさ)を「地方の隅々まで」広めたように、パウロも、「優れた言葉や知恵を用いず、- – イエス・キリスト、それも十字架につけられたイエス以外、何も知るまい」と心に決め、「ありのまま」を告げた。

 

まとめ
今日、風評被害は甚大。パソコン・ケータイによる “いじめ”やヘイト・スピーチは広がる。ツイッター、スマホ ほかソーシャアル・メディアのもたらす「デジタル・ヘロインの危険性自覚」を呼びかける『インターネット・ゲーム依存症』の本まで刊行された。それに「テロ」への恐怖を身にしみて実感している唯中。

今こそ、「悔い改めて、イエス・キリストの十字架のあがないによる罪の赦しのお恵みに与かり、復活の力による永遠の命を授かる− この評判、うわさを広めよう!

むさしの教会・顕現節第4主日礼拝 1/25/2015
テキスト: マルコ   1: 21〜28  申命記  18: 15-20  Iコリン  8:  1-13