説教 「ひとつに結ぶ」 石居基夫牧師

ヨハネによる福音書 7:37-39

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

五旬祭は、ちょうど過ぎ越しの祭りや仮庵の祭りと同じようにユダヤ人の大きなお祭りで、この祭りにはエルサレムの神殿に沢山の巡礼者が世界中から集まっていたようです。この祭りはちょうど収穫感謝の祭りで、神殿のみならず、それぞれの家庭でも感謝の祈りがささげられます。弟子たちは、大勢の人々が集まるこのエルサレムの街の中で、やはり同じように、神様に対する感謝の祈りをささげていたときであったと聖書はしるします。

どこかの家の大きな広間でしょうか、祈りのために集まっていた弟子たちに聖霊が下るのです。その様子は一人一人に対する聖霊のみわざを語っています。霊が彼らに上にとどまる。すると、彼らは、エルサレムにいた世界中の人々に、主のみめぐみを証し始めました。ちょうど居合わせた世界中から来ていた大勢の人々は、イエス様の弟子たちが自分の生まれ故郷の言葉で話し始めたので大変驚いたようでもあります。本当だったらガリラヤ出身の弟子たちには到底操ることのできないいろいろな国の言葉で、流暢に彼らがイエス様について証しをし始めました。ですから、これは世界中に神の福音が述べ伝えられる、その一番初めの出来事として、教会の誕生日と覚えられ、祝われているわけです。このことは、大変大切な意味を持っています。つまり、教会の誕生はなにかということです。それは、礼拝堂が建てられることではありません。誰かがその教えを確立したときではありません。教団の発足式が行なわれることでもない。教会の誕生は宣教の開始としておぼえられている。それが教会何か、ということをそのまま語っているのです。

宣教の開始。それは聖霊の出来事であります。聖霊は、弟子たちに彼らの自分の言葉ではなく、伝える相手の言葉によって、イエス様の救いの出来事を伝えることができるように力を与えてくださっています。言葉の違いというのは、単にその用いている言語が違う、単語が違うということだけではなくて、その違いによって、実はものの考え方も、感じ方も違ってくる。生活のあり方も人間関係のあり方もみんな言葉と深い関係があることです。だから、言葉が違うということは、生活のあり方が違っているといってもよい。聖霊は一人ひとりの生活を捉え、その人が生きるということそのものに神様の言葉がはたらくということです。

神様の言葉が語られる。それは、ただ頭のなかで神様というのはこういうお方と教えられて分かるように語られるということではない。そこにいた人たちはそれぞれの出身は異なっていましたけれども、みんなユダヤ人だったのですから、教えとしての聖書・律法と預言の書はヘブル語で読まれ、それを一応みんな分かるように教えられていたわけなのです。だから、単に神様とはこういうお方だとか、こういうことを求められるのだとかいうことが教えられるということであるなら、ユダヤ人のヘブライの言葉で語られればよかったということに違いないのです。

しかし、今日聖霊は人々が自分たちの生活の言葉でイエス様のめぐみを伝えるようになさいました。イエス様のめぐみの出来事は、一人一人の生きるいのちにかかわるのです。その人がどう生きているか、どういう生活をしているのか。そこにどんな悩みや痛みがあるのか。どんな嘆きがあり、どんな喜びがあるのか、どんな呟きがあり、どんな涙が流されたか。そのことを神様が見逃されずに、そして、そうした私たちの一人一人のところに確かな神様の慈しみが届くように主の聖霊が働かれた。

私たちは、このペンテコステ、聖霊降臨日が教会の誕生日といわれ、それは宣教の始まりとしておぼえられるのですが、それはまさに、神様の愛が私たちに深く注がれていること、それが具体的に示され、伝えられている出来事であることを忘れてはならないと思うのです。ただ、キリスト教の教えが教えられるということではない。むしろ、本当に神さまの愛が届けられていく。それによって人々が生かされている。それが教会の宣教の姿です。その人々の生活に、生きる真実に寄り添っていく、その神の出来事、教会の姿を知らされている。

けれども、私たちはここでこの人々のそれぞれの言葉で語りだされた宣教の始まりの出来事のもっている意味について、もう少し思いを巡らしたいのです。つまり、聖霊によって、いまキリストの福音がそれぞれのことばで語りだされねばならなかったという、まさにそのことによって、人々のうちにあからさまにされたことがある。それは、ほかでもなく、同じユダヤ人であるのに、通じ合う言葉を失っていたという事実です。紀元前6世紀にあのバビロニアによって国が滅ぼされて後、ユダヤ人は世界中に散らされていき、独立の国を持つことがなかった。その悲劇の結果といってもいいのかもしれません。

世界中に散らされていった彼らはディアスポラの民とよばれます。彼らは世界中にその生活の場を求めて広がり、どこにおいても、律法によって他の民族に交じり合うことから自らを守り、その神の民であるというアイデンティティーを持っている。そして、それぞれの場所に散らされていっても、彼らはユダヤ人であり続けたのです。そして、世界中でその生活の力を発揮した。しかし、それぞれの地でどんなに彼らがその力を発展させても、その場所が決して安住の地とはなりませんでした。歴史を通じ、そのユダヤ人は迫害をうけました。ユダヤの人たちの放浪の歴史は、現在のイスラエルの建国によっても、本当には解決はしていないのかもしれません。ディアスポラの彼らは、どんな場所に住んでもユダヤ人であり続けたのですが、もはやユダヤ人ではなかったのです。本当なら、ひとつの言葉で結び合える人々、分かり合うことのできるものたちが分かたれている。そして、それは言葉の問題だけではないのです。

しかし、この分かたれた現実はあのディアスポラのユダヤ人だけの問題なのだろうか。いや、むしろ、私たちがみな同じように、経験している痛みであるように思うのです。同じ民族、同じ家族であっても分かたれている。兄弟であっても、親子であっても本当にはわかりあうことができない。普段、表面は取り繕っているけれども、実は深い溝のなかで結び合うことができない。それが私たちの姿であるように思う。

聖霊降臨の出来事は、実はそうした私たちの破れた姿をあからさまにする。決して、そうしたことを何かで取り繕ったり、包み隠したりはしない。聖霊はまさに私たちのありのままの弱さ、破れを知らしめるものでもあるのです。私たちは、みなこの破れから自由ではありません。実際は、こうした問題は一番初めのキリスト者たちの中にさえ深刻な問題を引き起こしたことを聖書は伝えています。つまり、ヘブル語を話すユダヤ人たちとギリシャ語を話すユダヤ人たちとの間の争いがあったのであります。その破れの現実は、また時にペトロとパウロとのあいだにも言い争いをもたらしています。

しかし、聖霊はまさにそうした私たちの破れの中に働くのです。破れた関係がもう一度切り結ばれていくように、弟子たちに相手の言葉を用いる力をあたえています。この出来事は、聖霊による出来事でありました。

相手の言葉を用いるということは、相手の心、相手の命を受け止めるために備えさせられているということです。聖霊が一人一人に与えたものは、相手に合わせて、相手を説得する力というのではありません。また、すぐにも分かり合える魔法の力でもありません。

聖霊を注がれた弟子たちが語り始めると、人々は、驚き、また怪しみ、新しい酒によっているとさえ言い出します。相手の言葉をもって語り始めればすぐに分かってもらえるわけではないのです。きっと分かり合うことがなかなかできないで傷つかないではいない。あるいは、どんなに相手を思っても、その思いは届かずに、小さな行き違いで人を傷つけてしまいます。それが、私たちのありのままの破れなのです。その破れをどのように生きるのか。

そこに、聖霊の働きがある。

それは、神様のめぐみが知らされるということです。その破れた生を生き抜くための神様のめぐみは、ただひとつ、イエス・キリストが共におられるということです。だれも寄り添うことのないところ、私たちが切り裂かれ、一人であるということその深みに、主がいたもうということです。

キリストは、イエス様はもっとも深い破れを生きられました。愛する弟子たちにも捨てられ、父である神に見捨てられるという破れであります。それは、しかし、ただ破れのなかにある私たちを生かすというそのことのためにおわれた破れでありました。そして、その破れの只中から私たちのためによみがえられて、私たちを新しく生きるものとして捉えてくださるのです。

主の霊は、私たちが破れのなかで傷つくことを恐れさせない。むしろ、傷ついたところで、自分も、相手もこの主に赦されねばならないし、また、赦された存在として生きる事を知らせてくださいます。そうだ。つまり、そこでもう一度主によって新しくされて生きるということです。そのキリストにある命はキリストの愛そのもの。分かたれたところをみとめ、違いを認め、受け入れつつ、本当に相手に必要なキリストを示していく。それこそが、キリストの愛が表されることなのです。

キリストはその違いの中にも一致をもたらすために、自らを私たちに分け与えてくださいます。主は、御自身を今日も分かたれたものたちの一致のために聖餐の恵みの中で分かち キリストは御自身の愛を示されているのです。

主をいただくとき、私たちは、相手と共に生きる、その傷を癒され、そして、またその傷をおってもまたひとつに結ばれるためのあゆみに招かれていることを知りたいのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 5月15日 聖霊降臨日聖餐礼拝)