説教 「生きた水の流れ」 大柴 譲治

ヨエル3:1-5、使徒言行録2:1ー21、ヨハネ福音書7:37-39

聖霊降臨の出来事

本日は聖霊降臨日、ペンテコステ。教会の誕生日です。典礼色は聖霊を表す赤。燃え上がる炎の色であり、命を表す熱い血潮の色でもあります。

聖霊降臨の出来事が使徒言行録に記されています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。

たいへん不思議な出来事です。実はこれは、創世記11章の「バベルの塔」と正反対の出来事です。バベルの塔を築くことで神のようになろうとした人間は、しかしその結果、神によって互いに言葉が通じなくされて全地に散らされてゆきました。言葉が通じなくなったとは互いに心が通じ合わなくなったということです。しかし、聖霊降臨日にはそれと逆のことが起こる。互いに言葉が通じず心も通じ合わなかった人間が、聖霊によってキリストを信じる信仰によって結びつけられ、喜びのうちに一つとされてゆくという出来事が起こった。主イエス・キリストが万国共通語となる。依然として外国語の壁はありますが、言葉は通じなくてもキリストを信じる信仰において心が一つとされてゆく。それを私たちは聖霊降臨を通して、教会の誕生を通して実際に体験してきました。

私たちに福音を伝えてくれたのは外国からの宣教師でした。今日は島田療育センターから四名の兄弟姉妹が礼拝に出席されていますが、ドイツからの宣教師であられたヨハンナ・ヘンシェル先生の貴い働きを覚えます。1988年に天に召されたヘンシェル先生は文字通り日本に骨を埋められました。また、昨年12月にも来日、最近も2000年を共に迎えようとフロリダからの招待状を送ってくださったアメリカからの宣教師、キスラー先生とそのご家族の献身的なお働きは多くの皆さんがご存じと思います。またフィンランドから、現在はパウラサーリ先生ご家族が出席されていますし、昨年はクーシランタ先生にお交わりをいただきました。個人的なことを言えば、私の妻は韓国人ですから私は韓国から宣教師を迎えているとも考えています。教会はそのようなグローバルなネットワークを持っている。キリストが私たちを一つに結び合わせているのです。

聖霊降臨、教会の誕生。言語の壁の突破。キリストにおける一致。それらはヨエルの預言の成就です。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。聖霊の力によって子どもたちが預言し(つまり神の言葉を預かり語る)、若者は「幻」を、老人は「夢」を見るというのです。それは一体どのような「幻」であり「夢」なのか。私はこう思います。たとえ言語や歴史や思想や文化や習慣が異なっていても、私たちはキリストにおいて一つとされる、信仰において一つとなり、心が通じ合えるという「幻」であり「夢」なのではないかと。それは究極的な「神の平和」がキリストにおいて私たちのただ中に実現するということでもあります。主は祭りの最大のクライマックスで叫ばれました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。これもまた「神の平和」についての一つの明確な「幻」であり「夢」です。

命の水のイメージ

私たちはこの水のイメージ、流れ出る川のイメージからいくつかの聖書の言葉を思い起こします。ヨハネ福音書4章には、ヤコブの井戸で主はサマリヤの婦人にこう語りました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13-14)。

ヨハネ黙示録。7章では、大きな苦難を通り抜けてその衣を小羊の血で洗って白くした者たちが小羊によって「命の水の泉」へ導かれ、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれると告げられています(17節)。21章では、玉座に座っておられる方が「見よ、わたしは万物を新しくする」と語った後にこう続けます。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(6ー7節)。これと同様の言葉は22章の最後にも出てきます。22章にはこう描写されている。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」(1ー5節)。これらはすばらしい「幻」であり「夢」であります。

このような「幻」と「夢」が聖霊によって預言されている。私たちにはこのような終末の希望が聖霊によって約束されている。この「神の約束の地」に向かって「新しい神の民」である「教会」は荒れ野の旅を進めてゆくのです。「渇いた者はだれでもわたしのもとに来て飲みなさい」という主イエスの招きは、モーセが岩を打つとそこから水が湧き出したように、旅の途上でイエスさまご自身が私たちのために岩から湧き出した「生命の水」となってくださったことを意味します。「信仰」とはこの泉から飲むことなのです。そしてそれは自分一人が飲むということだけには留まりません。飲む者の内から泉がこんこんと湧き上がり、渇いている多くの人がそこから命の水を飲むのです。

生きた水の流れ

イスラエルにはヨルダン川に面して二つの湖があります。ガリラヤ湖と死海です。その違いは明らかです。ガリラヤ湖はその周りに花が咲き魚が豊富に獲れる「命の湖」。死海の方は文字通り「死の海」。塩分が強すぎて何も生息できない。この二つの湖を分けるもの、生と死とを分けるものは何なのか。単純な事です。ガリラヤ湖はヨルダン川の上流から水をもらうと同時に下流へとそれを流してゆく。それに対して死海は、ヨルダン川から水をもらうばかりでどこにも流さない。だから水はよどみ、岩塩がたまって死の湖となってゆく。ただもらうばかりでは生ける水の流れにならない。受けたものを他へと与えてゆく時に、そこには豊かな命が溢れてゆくのです。

イエスさまが命の水について語る時には常に、この水の動的な流れが同時に語られています。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7:38)。水は豊かに溢れ出てゆく。聖霊も、神の愛も、そこで与えられる喜びも同じです。それは自分だけでとどめておくことはできない。豊かな泉となり流れとなって溢れ出て人々の渇きを癒してゆく。その意味で神の聖霊を受けた者は自ら命の水に与るばかりでなく、それを魂の渇きを覚えている人々にも分かち合ってゆく。そのような役割と使命が与えられていると言わねばなりません。水が流れなくなるとよどんだ死の海になってしまうように、生ける水は私たちを通して、また私たちを越えて遙かに、そして豊かに流れ出てゆくのです。神さまの命とは本来的にそのようなダイナミックな動きをもったものです。その慰めと喜びに与った者は隣人へと伝えずにはおれない。それが生ける水の流れです。そして他と分かち合うことによってそこにはさらに喜びが増し加えられてゆく。

三名の方々の受洗

本日はこれから三名の方の洗礼式が行われます。洗礼とは神さまの生ける命の水を飲むこと、そして私たち自身を命の泉としていただくことです。三名の方々のこれまでの歩みを思うとき、私たちは生けるキリストのご臨在を強く覚えます。洗礼式に当たって、私たち自身も自らの洗礼を思い起こしたいと思います。生ける神の子キリストが私たちを新しい命の泉に与らせてくださったことを。

最初は、E.K.さんのお嬢様のS.ちゃんです。昨年の8月7日にお生まれになられました。今日はご主人も出席してくださっています。E.K.さんは今から17年前、私が神学生の時の中学科の教え子で、キスラー先生のお宅で毎週共に教会学校に集ったことを思い起こします。歴史を貫いて働かれる神さまのみ業を覚えます。神さまの恵みのうちにS.ちゃんが豊かに祝福され、神と人とに愛される子供として成長してゆきますようお祈りいたします。

二番目はご婦人のM.K.さん。私が着任する直前からこの教会に来られるようになり、二年間求道されました。サフランにも積極的に関わってくださいました。ご主人のお父様であられたH.K.さんはこの教会の役員として長くご奉仕してくださった方ですが、15年前に天に召され、ちょうど桜の花咲く頃にこの場所でご葬儀が行われたと伺っています。皆さんが今お座りの長椅子はH.K.さんが心をこめて作ってくださったものです。M.K.さんは次のように受洗の動機を書いてくださいました。「永い事翔んでいて疲れて翼を休めようかと寄った所がルーテル武蔵野教会でした。その時は大雨。羽づくろいをして再びとび立てるのか。明日のことを考える力もありませんでした。洗礼をいただくなんて思っても見なかった。・・今云えることは『生きていてよかった』、この一言です」。今日の日を迎えられたことを心から嬉しく思います。今日はご主人様や妹さんをはじめご家族の方々もお見えになっておられます。命の水が豊かに分かち合われてゆくようお祈りいたします。

三人目は、昨年クリスマスの前から礼拝に出席されるようになられた青年のE.O.さんです。E.O.さんは倉敷で小学6年生の頃から近くの教会学校に通っておられました。大学2年の時に心の中にイエスさまを救い主として受け入れたということですが、受洗の直接のきっかけは先日の徳善先生のトマスについての説教でした。神さまの招きを強く感じられたのです。音楽がご趣味で、ゴスペルグループで活動されてこられたともお聞きしています。今日はお友達が二人いらしてくださいました。生ける水の流れがE.O.さんを通して豊かに溢れ出てゆきますようお祈りいたします。

私たちはこのような洗礼という出来事が起こってゆくことの中に、この教会の中に吹いている風を感じ、聖霊の働きを感じます。命の水の流れを感じるのです。そしてこの命の水を豊かに私たちが分かち合う時に、私たちはさらに豊かな喜びに満たされてゆくのです。パウロは「わたしは福音のためなら何でもする。わたしも共に福音に与るためである」と言いました(1コリント9:23)。命の水を互いに分かち合ってゆくときに、私たちもまたその水に与る者とされてゆくのです。

「渇いている者はだれでも」~聖餐への招き

本日は聖餐式があります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。イエスさまは立ち上がって大声で叫んで言われました。私たちはその声を聴いたのです。私たちは聖餐式において主イエス・キリストの命のパンと命の水に与りたいと思います。

私たちの中から喜びと慰めが満ちあふれてゆきますように。お一人おひとりの上に、み言葉を通して、また洗礼と聖餐を通して、神さまの聖霊が豊かに注がれますように。この武蔵野教会が神さまによって命の泉として用いられ、こんこんと命の清水が豊かに湧き出してゆきますように。悲しむ者、苦しむ者、魂の渇きを覚える者たちがその水によって癒され、慰められ、新しい希望に生かされますように。私たちが神の幻と夢とを実現してゆくことができますように。 アーメン。

(1999年 5月23日)