「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:10)
クリスチャンのソーシャルワーカー向谷地生良(むかいやちいくよし)氏の書いた『安心して絶望できる人生』(NHK生活人新書、2006)という書物を知った。そのたすきには印象的な言葉がある。「病気なのに心が健康になってきた。精神病を抱えた人たちが、自分で自分の助け方を見つける浦河べてるの家。今日も順調に問題だらけだ!」北海道の襟裳岬の近くに浦河という人口1万5千人の過疎の町があり、そこに「浦河べてるの家」という共同体がある。「べてる」とは「神の家」(創世記28章)という意味のヘブル語。その「問題だらけの共同体」についてのレポートが実に面白く、読む者の心にまっすぐに響いてくる。
そこには、これまで幻聴など精神的な病いに長く苦しめられてきた人々が自分自身を研究対象にすることで気づきを深め、それを分ち合うことを通して共同体を形成してゆく姿が描かれている。題して「当事者研究」。なるほど!それは私にとって「目からウロコ」体験であった。私たちの問題は「自分の中に弱さを抱える」ことにあるのではなく「その弱さを分かち合う共同体を形成できないでいる」ことにあるのだ。困った時に、それを乗り越えること以上に大切なことは、「今、私は困っています」というSOSを外に向かって発することなのである。これが簡単に見えて難しい。自分の無力さをさらけ出すことになるからだ。しかし不思議なことに、それができた時に共同体が形成されてゆく。安心して弱さを分ち合い、絶望を担い合うことのできる共同体がそこに出現する。「しかし、『絶望感』という鉱脈を掘り当てたときに、ふつふつとわき上がってきたのは、不思議にも『充実感』だった」(『べてるから吹く風』)。ティリッヒに触発されながら向谷地氏は、イエスが人々の弱さの中に降り立ったことに思いを馳せつつ、ソーシャルワーカーとして自らの無力さを原点に「安心して絶望できる援助」を展開してゆく。
それは決してきれい事ではない。そこには生身のぶつかり合いがあり、徒労と失望の涙があり、どん底を共に生きようとする覚悟があり、気が遠くなるような忍耐がある。同時に、底抜けの明るさがあり、ユーモアがあり、しぶとい生命力があり、かけがえのない人間のドラマがある。登場人物一人ひとりが何と生き生きと輝いていることか。べてるの家の混とんとした現実を見守る精神科医や看護師、ソーシャルワーカー、牧師や浦河の人たちの姿も実に温かい。
この世の上昇志向的な価値観に真っ向から対立するその「降りてゆく生き方」に「我弱き時にこそ強し」というパウロの言葉を思い起こす。そこにキリストのリアリティーを強く感じるのは私だけではあるまい。この本を多くの方に手にしていただきたい。そして私たちの気づきを分ち合うことができれば、私たちもそのような共同体に参与できるようになるのではないかと思う。
(2007年3月号)