ヨハネによる福音書 10: 1-16
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。命がけの愛
自然を観察していると、しばしば親鳥が命がけで子鳥を守る様子が見受けられます。本能的に親は子を守ろうとするのです。たとえば、相手が自分の何倍もあるような鷲であっても、子鳥を守るために親鳥は飛びかかってゆきます。そのけなげな姿に私たちは心を打たれるのです。一、二年前になりますか新聞に何枚かの連続写真が載りました。パレスチナの市街戦で、少年とそれを守ろうとした父親が撃たれて亡くなる場面の写真です。親は子を守ろうとしたのですが、守ることができなかった。その痛ましい写真を見たときに、私は心で泣いていました。なんとむごい現実なのでしょう。今この瞬間にも、地上においてはそのような場面が再現されているのです。人間は暴力の前になんと無力な存在なのでしょうか。
親子愛
それにもかかわらず、命がけの愛というものがあります。自分の生命を賭けて、大切な者を守ろうとする愛です。2000年10月29日の読売新聞第一面の「編集手帳」(読売版「天声人語」)に紹介されていたエピソードが心に残っています。七年間の長きにわたって引きこもりをしていた息子が、あるときガソリンを自らにかけて火をつけて死のうとした。咄嗟に父親が後ろから息子にしがみついて、「火をつけろ。私も一緒に死ぬから」と叫んだという場面です。
斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。
生命を賭けて息子を守ろうとする父親の必死の思いが伝わってきます。人間というものがどこで生きることの意味を見いだすかがよく分かるエピソードでもあります。しかしその影には、七年間にも渡る、不登校の息子に対する忍耐強い愛があることを見落とすことはできません。強君のご両親は中学校一年生、つまり13歳から20歳までの七年間、子どもとともに苦しみ、子どもと共にうめき続けたのです。それがあればこそ、時を得て親子愛が伝わったのだと思います。
命がけで羊を守る羊飼い
本日の福音書の日課で主イエスは語られています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と(ヨハネ10:11)。またこうも語られました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(同14節)と。私たちは羊飼いなるお方が、私たちを命がけで守ってくださったことを知っています。あの十字架の出来事はそのような出来事なのです。私たちはあのお方にとっては、一人として失われてはならない、かけがえのない存在なのです。このお方は生命を賭けて私たちを守ろうとしてくださった。
私たちは自分を愛してくれる者を持つときに、生きていて本当によかったと感じます。愛する者を失うときに、半身が引き裂かれるような悲しみを味わうのも、その者の存在が私たちを深く支えているということを知っているからです。
私はこの教会に着任してすぐの時に、現在ご入院中の緒方順子さんが、戦争中に敗戦直前に自分の長男を亡くし、自分で薪を拾ってきて荼毘に付したということを淡々と語ってくださいました。また、亡くなられた根本静江さんは繰り返して、「自分にとって一番つらかったのは二人の息子に先立たれたことだった」と語ってくださいました。豊田静太郎さんが、先日の二宮愿夫さんのご葬儀の時に、「自分は昨年夏に死んだ娘の写真の前で毎日、『親より先に逝くなんて、バカ者』とゲンコツを振り上げているのだ」と語られた言葉に、徳島の斎場での火葬時、扉が閉まる時に「祐子ちゃん、行かないで」と大きく叫ばれた豊田夫人の悲痛な声を思い起こしながら、胸を鋭く突かれました。
子を守ろうとして守れない親の気持ちを思います。親の無力さを思います。そして残された者の悔しさ、無念の思いを思います。
おそらくそこには、CSルイスが語ったように、愛する者には別離というステージがやってくるのです。それは愛という舞踏の新しいかたちなのだとルイスは言う。春の後に夏が、夏の後に秋が来るように、生の後に死が来ること、出会いの後に別れが来ることは避けられない定めである。しかし、別離や死によっても引き裂かれない新しいかたちの二人の踊りがそこから始まるのだと、妻を亡くした深い悲しみの中でルイスは洞察しているのです(『悲しみを見つめて』)。
無力な神とその愛
人間の力は無力なものです。しかしそのような無力さの中で私たちは、私たちの無力さをすべてその身に背負ってくださった方がおられることを知っています。それが十字架と復活の主イエス・キリストです。よみがえられたイエスさまは、繰り返し弟子たちに十字架の傷跡をお見せになりました。それは弟子たちにとっては裏切りのしるしであり、不信仰と無力さのしるしでした。弟子たちを裁くためにそれを主はお見せになられたのではありません。それを引き受け、赦すために主は十字架にかかり、そして三日目に死人のうちからよみがえられたのです。罪と死と滅びとから私たちを救いだすためでした。そしてその背後には、独り子の十字架を、天において無力なまま見つめる父なる神がおられたのです。アブラハムがイサクを献げなければならなかったように、神がみ子を自ら犠牲として献げてくださった。その神の親としての深い痛みを思います。イエスさまの十字架のそばには母マリアが立っていました。マリアの心はどれほどの痛みに刺し貫かれたことでしょう。神は子を失う親の気持ちをだれよりも深くご存知でした。主が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けたとありますが、それは神の心が裂けたことを表していましょう。私たちの天の父は、その独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。ご自分の一番大切なものを与えてくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためであると聖書にはあります。
「わたしはよい羊飼い。羊のために生命を捨てる」と語られた主イエス・キリスト。全く無力に見える姿の中で、最後まで従順に父なる神のみ心に従い、命を捨てて羊を守り抜いてくださったお方がここにおられます。そしてそれを天において耐え忍ばれた神がおられます。この父と子の命がけの愛の中に、私たちは真の生命を贈り与えられて生きるのです。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
このお方のみ声を聴きながら、新しい一週間を歩みだして参りましょう。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2002年 4月21日 復活後第三主日礼拝 説教)