信仰をもって世の中を見る 賀来 周一

 「哲学は考える世界を、宗教は経験する世界を教える」と言われます。ところが、ルターはこう言います。「神の言葉を聞いて、よく分かったというなら、人間の知恵は働いているかもしれないが、神の知恵は働いていない。神の言葉を聞いたならば、驚かなければならない。驚いて神の言葉を聞く時、人間の知恵は後ろに退き、神の知恵が働く」。私は、このルターの言葉を聞いて、「聖書の世界は出来事の世界を教える」と思いました。

 わたしたちは、福音を信じると言います。福音といえばGood News、良い音信(おとずれ)と訳します。けっしてGood Teaching、つまり良い教えとは言いません。NEWSという限り、出来事を伝えていることになります。聖書は、その意味では、神の出来事を伝える新聞と言うべきでしょう。

 その視点から、聖書を読めば、初めから終わりまで、神が人間の世界に起こしてくださった出来事の連続であることが分かります。学者たちは、これを歴史的出来事の記録としての世界史と言わず、救済史と呼びます。神の救いの出来事の記録が書かれているからです。

 ルターは神の言葉である聖書に驚きの耳を傾け、その驚きを信仰に変えてわたしたちに伝えた証人のひとりです。そのようなルターの信仰表現に心揺さぶられない人はいないでしょう。今、そのひとつを紹介しましょう。

 ルターの著作「ガラテヤ書大講解」に極めて大胆な表現を見ることができます。「全世界の罪がキリストにあるなら、罪はこの世にない。全世界の罪がキリストにないなら、それはこの世にある」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節の講解)がそれです。

 「いや、とんでもない話だ。罪がこの世にないなんて。その証拠に争いは絶えず、憎しみは人の心から取り去られることなく、悲しみは地に満ちているではないか」と人間の知恵は言うにちがいありません。しかし、信仰の目をもってルターは言います。「罪と死がひとりの人によって取り除かれると神は全世界に、もはや聖と義のほか何もご覧にならない。たとえ罪の残りがまだあったとしても太陽であるキリストの故に神はそれに目をお留めにならない。」

 もしも、人間の知恵で、この世を見るなら罪の残滓を何時までも見続けることになります。そうなると「世の中はそんな甘くない、何をしても無駄、結局はなるようにしかならない」と嘆き節だけが口から出ることになりましょう。

 しかし、十字架の出来事に驚き、それを信仰に変えて世の中を見るなら、わたしたちがこの世を生きるための神の知恵を発見します。それは、<神はどのような世の現実があるにせよ、太陽であるキリストに照らされた聖と義のみをご覧になり、罪に目を留められない>ということです。人間の知恵で考えたことではありません。十字架の出来事として起こっているからこそ、驚き、さらに信仰の眼でそれを見たときにのみ、はじめて見えるこの世の姿です。

 そのようにして聖と義に満ちたこの世の姿を見るなら、小さな平和への祈り、からし種ほどの隣人援助のわざ、自分や他人の将来の幸せのためのちょっぴりの努力、それらをこの世に立ち向かう蟷螂の斧とは思わなくなるでしょう。むしろ勇気や希望や慰めとなっていることを発見するのです。

むさしの教会だより 2015年7月