たより巻頭言『「メタ認知」について』 大柴 譲治

「そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。」(マルコ6:46、口語訳)

このところ脳科学者の茂木健一郎氏の書物をよく読む。最初に読んだ『脳と仮想』(小林秀雄賞受賞)が実に面白かったためである。1億4千万個の細胞によって構成されるたった1リットルの脳の働きは真に不思議に満ちている。「メタ認知metacognition」という言葉もそこから学んだ。「メタ meta」とは「上に」とか「超えて」という意味のギリシャ語で、例えば「メタフィジクスmeta-physics(超-物理学)」は「形而上学」と日本語に訳される。鏡に映る自分の姿を見て、そこに自分が映っていることを認識できる動物は四種類しかいないことが実験で確かめられているそうだ(『脳の中の人生』)。チンパンジー、オランウータン、イルカ、そしてヒトの四種である。鏡に映ったのが自己の姿であることに気づくためには、自己を超えたところ、離れたところから自己を見つめる視点を持たなければならない。外から自己を見つめる視点、それが「メタ認知」能力である。これにはハッとさせられた。以前「反省だけならサルでもできる」というCMがあった。本当だろうかといぶかしく思ったが、なるほどそうだったかと妙なところで得心する(そのサルはチンパンジーだったであろうか)。これも私にとっての一つのメタ認知であろう。バラバラであったものが一つにつながる。そこには確かに知的な喜びがある。

「メタ認知」とは一歩退いて自分を含めた全体をバランスよく視野に入れる視点でもある。主イエスはしばしば祈るためにただ独り山に退かれたが、それは天の父に祈るためであったが、高い地点から自己の姿を見つめる「メタ認知」のためでもあったのではないか。

私はもともと理系の人間だったせいか、自分の空間把握能力には自信を持ってきた。バランス感覚、方向感覚と地図を読むことには長けていた(はずであった)。しかし6年ほど前から、地図を読むのに時間がかかるようになってきた。遠視が進み、眼鏡をかけたりはずしたりする手間が必要になってきたのである。おそらく周囲に対する観察力も落ちてきたのであろう。視野も狭くなったかもしれない。人間が得る情報の85%は視覚によると言われるが、視力の減衰につれて私のメタ認知能力も落ちてきたのではないか。いやいや、これまで視覚に頼りすぎてきたのではないかと反省する。「見えると言い張るところに罪がある」と主も言われたではないか。

時々目を閉じなければならない。そうすれば心の目が開き、新しい次元でより統合的なメタ認知能力が与えられるような予感がする。人生の午後の時間は魂を豐かにしてゆくためにあるとユングは言った。そのためにも一歩退いて山に登る必要があるのではないかと最近しばしば思っている。

(2006年7月号)