「塵にすぎないあなたが塵に返ることを心に留めなさい。」 これは聖灰水曜日の礼拝で、聖壇に歩み出る会衆の額に牧師が灰で十字を記す際に語られる言葉である。むさしの教会の伝統では、前年の棕櫚主日に配った棕櫚の葉の十字架を燃やして作った灰がそこで用いられる。
ここで「灰」は地上に生きる被造物のはかなさと哀しみとを象徴している。この世の美しさも誇りもしばしの栄華に過ぎず、やがては夢のように消えてゆく。メメントモリ。どんな人であっても死んだ時に残るのはただ一握りの灰だけである。そう思う時、生きることはまことに切なくも哀しい。「灰」は私たちを冷厳な死の事実の前に誘う。刻々と死にゆくプロセスの中にありつつ、我々はどのように今を生きるかを学ばなければならない。
聖灰水曜日からレントが始まった。典礼色は紫。主の十字架の苦難に思いを馳せ、自らを省み、悔い改めつつ過ごす46日間である。そこでは「灰」は悔い改めのしるしとなる。これまでの歩みを振り返る時には苦い悔いの残ることばかり思い起こされるが、それがおそらく聖書が「塵灰の中に座す」と表現することなのであろう。過ちを繰り返さぬためにはそのような内省がどうしても必要なのだ。それは自分の十字架を背負うということでもあろう。
「灰」は我々が土の塵で造られ、神によって命の息を鼻に吹き込まれて生きるものとなったことを教えてくれる。この神の息が天に返る時、我々の地上の命は終わる。我々に最初の息を与えてくださったのが神ならば、我々の最後の息を引き取ってくださるのも神なのだ。最近ラム・ダスの本を読んでハッとさせられた(『死の処方箋』)。禅師から呼吸に意識を集中するように教えられる中で彼はこう問われる。「今朝あなたが目覚めたのは、吐く息の中であったか、吸う息の中であったか」。そこまで人間の意識に集中が可能なのかと驚かされる。人生は吸う息の中で始まり、吐く息の中で終わると聖書は告げる。人の一日もおそらくこれと同じではないかと思う。
棕櫚の葉を燃やして灰を作る時、そこからは独特の香ばしい香りが立ち昇ってくる。キリストの香りとはこのような香りではないかとも思う。パウロはこう語っている。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2コリント2:15-16)。キリストの十字架と復活のゆえに、弱さや破れを抱えながらも、我々には神への香りの献げ物として天へと立ち昇ってゆくことが許されている。そう思う時に不思議な慰めが与えられる。もしかするとこれがキリストのアロマセラピーなのかもしれない。
(2006年3月号)