ヨハネ福音書 14:1-14
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。「わたしは道であり、真理であり、命である」
ヨハネ福音書の14章からは、13章で弟子たちの足を洗われたイエスさまの弟子たちへの告別説教が記されています。16章までが告別説教で、17章は告別の祈りとなっています。そして18章からは、主は十字架への最後の一歩を踏み出してゆかれるのです。本日は有名なイエスさまの言葉が記されています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。イエスさまを信じるということは、イエスさまに従ってこの真理と命の道を歩むということです。この道はどこにつながっているか。私たちの目的地はどこであるかということを今日の福音書の日課の1-4節は明らかにしています。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
この道は天国への道であり、天の父なる神さまの家に通じる道です。私たちが毎週、週の初めの日である日曜日にこの教会に集まって礼拝をするということは、「この道」を歩むということを確認するということでもありましょう。
盲人バルティマイのいやし
「道の上を歩む」ということで思い起こす聖書のエピソードがあります。マルコ10章の終わりの部分、エルサレム入城の直前ですが、主がエリコからエルサレムに出発されようとするところで盲人バルティマイをいやす場面です(10:46-52)。マタイとルカにも平行箇所があります。◆盲人バルティマイをいやす
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
ここで盲人のバルティマイは最初、「道端」に座って物乞いをしていました。「道の上」ではなく、「道の外」にいたのです。それがイエスさまによって目を開かれた後、彼はなお「道」を進まれるイエスさまに従ってゆくのです。主に従って道の上を歩む者へと変えられていったのです。大変に印象的な場面です。
時は、エルサレムで過ぎ越しの祭りを祝うため世界中から巡礼団がエルサレムに上ってくる時期でもありました。バルティマイが見えない目をイエスさまに向けながら必死に「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と声を限りに叫び続ける場面は、巡礼団のための「都詣での詩編」(120-134編)の一つ、詩編130編の情景とピッタリ重なります。
詩編130編 都に上る歌。
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを
すべての罪から贖ってくださる。
このことは本日の主題詩編でもあるハレルヤ詩編146編とも重なっています。
詩編146編
ハレルヤ。
わたしの魂よ、主を賛美せよ。
命のある限り、わたしは主を賛美し
長らえる限り
わたしの神にほめ歌をうたおう。
君侯に依り頼んではならない。
人間には救う力はない。
霊が人間を去れば
人間は自分の属する土に帰り
その日、彼の思いも滅びる。
いかに幸いなことか
ヤコブの神を助けと頼み
主なるその神を待ち望む人
天地を造り
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
主は寄留の民を守り
みなしごとやもめを励まされる。
しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
主はとこしえに王。
シオンよ、あなたの神は代々に王。
ハレルヤ。
最近私は詩編に強く惹かれます。詩編が持っている時空を超えた言葉の力といったものを感じるのです。ルターは150編ある詩編のすべてがキリストの祈りであると言いました。確かにイエスさまも毎日詩編を用いて神さまに祈ったに違いないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と告げられたキリストの道を歩むということは、実はそのような詩編による祈りの道を歩むということでもありましょう。魂を豊かにするための「人生の午後の時間」(ユング)に入っているためか、私もようやく詩編の重要性を実感として感じるようになりました。
詩編151編?!
詩編に関して思い出すエピソードがあります。私が神学生時代に聞いた話です。その昔ルーテル神学校長でありJELC総会議長でもあった岸千年先生が、牧師になるための教師試験で詩編について次のような質問をされたそうです。「はい、では聖書を開いてください。詩編151編」と言われて聖書に手を伸ばした神学生はその時点で不合格となったというエピソードでした(本当にあった話でしょうか)。実は詩編は150編までしかありませんから、151編を開こうとすること自体誤りなのです。しかしよく考えてみるならば、信仰者の日々の歩みは自分の言葉で祈る、つまり自分の言葉で詩編151編以降を心に刻んでゆくことであるとも言えるのではないかと私は思います。それは、やはりかつて神学校の新約学教授であった恩師の間垣洋助先生が、「使徒行伝は28章までしかないけれども、29章以降はあなた方自身が自分の人生をもって書き記してゆくのです」と講義でおっしゃった名言を私に思い起こさせてくれます。同様に、福音書も新約聖書には四つしかありませんが、第五福音書は私たち自身が人生をかけて自分の言葉で書いてゆくものであると考えてよいのでしょう。「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られた主イエスに従って生きるということは、そのような人生を歩むということなのです。
そしてそのような歩みは、孤独な歩みであるように見えながら実は孤独な歩みではないのです。それは雲のように多くの証人たちがこの二千年にわたって歩んできた道なのです。そしてこの道は、信仰のバトンが先に歩む者から後から来る者に受け継がれることを通して、「荒れ野」のように道なきところにも切り開かれてきた、そのような道なのです。この道はひとすじに天の父なる神さまに向かって続いています。その道を歩む人生の基調音は喜びです。「主に従いゆくはいかに喜ばしき」という讃美歌を思い起こします。そこにはこのキリストの道を共に歩む喜びが溢れています。
『我が涙よ、我が歌となれ』
最後に「詩編151編」の一例を引用して終わりたいと思います。ご存じの方もおられましょうが、原崎百子さんの『わが涙よ わが歌となれ』(新教出版社、1979)という本に「わが礼拝」という詩が記されています。原崎百子さんは、肺ガンの中でも最も悪性のガンに冒され、苦しい闘病の後、1978年8月10日に天に召された日本キリスト教団の教会の牧師夫人です。その11日ほど前の7月30日の日曜日が最後の礼拝出席となりましたが、その日の日記には次のように記されています。主の日である。私たちの一週の冠である主の日。主の日は一週の出発であり、中心であり、目的である。どうかこの日、心から主をあがめ、ほめたたえることが出来るよう、朝食前祈った。礼拝。歩いて行かれない。歌えない。唱えられない。そういう私の礼拝を、本気、本当の礼拝として捧げることを考える。
わが礼拝
わがうめきよ わが讃美の歌となれ
わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ
主をほめまつるわが歌となれ
わが病む肉体から発する
すべての吐息よ
呼吸困難よ
咳よ
主を讃美せよ
わが熱よ 汗よ わが息よ
最後まで 主をほめたたえてあれ
(『わが涙よわが歌となれ』p100-101)
私たちを「道端」からこの「道の上」に招いてくださるお方、天のふるさとを目指して共に詩編を歌いながら歩むよう召し出してくださるお方の呼びかけの声に耳を澄ませてまいりましょう。お一人お一人の上に、主イエス・キリストの声が確かなものとしてこの新しい一週間も響き続けますようお祈りいたします。 アーメン。