説教 元宮道子姉前夜記念式礼拝 大柴譲治牧師

ヨハネによる福音書14:6、マタイ福音書5:3-10

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

元宮道子姉のご生涯を覚えて

私たちは今晩ここに、愛する元宮道子姉のご生涯を覚え、記念するために集められています。元宮道子さんは(以降ペコちゃんと呼ばせていただきたいと思いますが)、私自身も神学生の時、1980年夏、軽井沢で行われたルーテル教会のディアコニアキャンプで一週間、ペコちゃんの父親役として一生懸命ペコちゃんに関わらせていただいたことがありました。ペコちゃんは6月5日の木曜日の朝早く、当直の職員の方が讃美歌を歌う中、52歳と三ヶ月のご生涯を終えて、天に召されて行かれたのです。4月1日に末期の胃ガンの診断を受けてから二ヶ月余の闘病生活でした。

その間、苦しい中、院長の木実谷哲史先生をはじめ、職員の方々が献身的に介護してくださいました。特に第6病棟の職員の方々は、「勤務時間が終わっても本当によくペコちゃんの傍にいてくれたと思います」と伊東婦長さんからも伺いました。元宮姉が亡くなられたというお電話をいただき木曜日の朝、お祈りに伺いました時、木実谷先生も「精一杯の介護をさせていただきました」とおっしゃってくださいました。あのペコちゃんの笑顔ともう会うことができないと思うと深い悲しみが私たちを襲いますが、復活を信じるキリスト教の信仰においては死は終わりではなく命の始まりでもある。そのことを覚えながら、しばらく元宮道子さん、ペコちゃんのご生涯を振り返ってみたいと思います。

『いつくしみ深き友なるイエスは』

5月29日(木)に私どもがお祈りに伺った時にはちょうど運動会が終わったところでした。先程も最初に歌いました『いつくしみ深き友なるイエスは』を病床で歌いました。するとペコちゃんは讃美歌を聴いて安心したのか、よく休めたということを婦長さんから伺いました。実は、この讃美歌は先程も歌いましたが、ペコちゃんがずっと幼い時から、横浜のカトリックの施設である聖母愛児園にいた頃から、そしてこの島田療育センターに移ってきてからも初代院長先生の小林提樹先生やヘンシェルママや原田(積夫)パパや、この島田療育センターの職員の方やルーテル教会のディアコニアキャンプで出会った様々な方たちと一緒に繰り返し歌ってきた讃美歌であります。毎月第二日曜日に私たちも礼拝のために伺わせていただいていますが、そこでもよく歌う讃美歌でもあります。

歌というものは不思議なもので、いろいろな思い出をサアーッと瞬時に思い出す。多くの人と多くの場面で一緒に泣いたり笑ったりしたことを思い起こすのです。カラオケが人気があるのは、歌うことそのものよりも、その歌が流行った時のことを懷かしく思い起こすからではないかと思います。そして、悲しい時、苦しい時に音楽というものは大きな慰めになります。特に讃美歌は自分たちが辛い時、悲しい時、弱い時に神さまがそばにいて守っていてくださるということをダイレクトに教えてくれるものなのです。

この讃美歌『いつくしみ深き』は、すべてを私たちの友である主イエスさまにお委ねしてよいのだということをストレートに歌った讃美歌です。これは多くのクリスチャンにとって愛唱讃美歌となっている曲ですが、実は悲しい背景を持った讃美歌でもあります。この曲は最愛の婚約者を失った悲しみの中で作詞されたと伝えられている讃美歌なのです。悲しみをすべて越えて主が私たちの傍らにあって、私たちを守り慰めてくださるお方がいる。そのことを歌っています。

ガンとの苦しい戦いの中で、ペコちゃんはどれほど周囲の方たちの温かい手と声とに支えられたことでしょうか。最後は職員の方たちが讃美歌を一杯歌ってくださったとも伺いました。讃美歌のCDをわざわざ買って練習した方もおられたと聞きます。ペコちゃんはその讃美歌を聴きながら、これまでの多くの人の愛を思い起こし、幸せな気持ちになったことでしょう。そして何よりもイエスさまが共にいてくださることを信じて慰めと希望とをそこに感じ取っていったのではなかったか。私にはそう思えてなりません。

WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS
作詞: Joseph Scriven (1820-1886)
作曲: Charles Converse (1834-1918)

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。 アーメン。

元宮道子姉のプロフィール

さて、ここでペコちゃんのご生涯を振り返ってみたいと思います。ペコちゃんはその最初の二年間に二つの重い十字架を与えられました。一つは肉体的精神的な障害、そしてもう一つは両親から見捨てられるという十字架でした。どうしてこのような二重の苦しみがペコちゃんに与えられたのかは分かりません。捨て子であったペコちゃんのことは当時大きく新聞にも取り上げられたのですとケースワーカーの山田さんから伺いました。全く身寄りのないかたちでペコちゃんはその生涯の歩みを始めたのです。

ペコちゃんのご生涯を式次第に記させていただきました。

生年月日  1951年(昭和26年)2月20日(享年52歳3ヶ月)
入所年月日 1962年(昭和37年)5月14日(在所41年)

捨て子で家族不明。1953年(昭和28年)2月19日、東京電灯管理局尻手寮の軒下で発見された。当時推定年齢2歳。
同年7月2日、聖母愛児園養護施設乳児院に入園する。脳障害を有していたため、翌年9月24日、日赤産院乳児院に委託入院する。
年齢超過のままずっと在院していたが、島田療育園開園間もなく1962年5月(11才3ヶ月の時)、聖母愛児園養護施設より委託入院扱いにて当センターに入所。
1963年(昭和38年)8月3日聖母愛児園養護施設退園、横浜市より正式に当センターへ措置入所となる。
当時島田療育センターに関わっていたドイツ人ディアコニッセのヨハンナ・ヘンシェル先生より我が子のように可愛がられ、毎年夏のディアコニアキャンプを楽しみにする。
1970年(昭和45年)12月25日 日本福音ルーテル武蔵野教会三鷹集会所において賀来周一牧師より受洗(小児洗礼)。教保はヘンシェル先生。
1974年(昭和49年)12月25日 三鷹集会所において賀来周一牧師より堅信式を受ける。
2003年(平成15年)4月1日 悪性腫瘍が胃に発見される。
2003年6月5日(木)午前1:37 島田療育センター第6病棟における二ヶ月余の闘病生活の末に、職員が歌う讃美歌を聴きながら平安のうちに天に召される。享年52歳と3ヶ月であった。

本 籍 神奈川県横浜市鶴見区尻手2-58

「元宮道子」というお名前について

ペコちゃんも二歳までは両親の愛情を一身に受けて育ったことでしょう。その親御さんはどのような思いでペコちゃんを置き去りにしたのでしょうか。愛する我が子を手放す親の苦しみ。その時ペコちゃんは涙の洗礼を受けていたのだと思います。

十字架の上でイエスさまは「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれましたが、ペコちゃんもまさに愛する者から見捨てられるという辛い状況の中で悲しい思いを体験してきたのだと思います。

さらにペコちゃんは最後にガンという三つ目の重たい十字架を与えられました。しかし最後までペコちゃんはそれらの十字架をしっかりと背負い、ひた向きに頑張り抜きました。また、ペコちゃんの周囲の人たちはペコちゃんを温かく支えてきました。そのただ一人で頑張るひたむきさ、無心な姿が私たちの心にははっきりと焼き付いています。実は、私たち自身がペコちゃんのひたむきな生きかたから大きな励ましをいただいていたのです。だからこそ、ペコちゃんが時折見せる満面の笑顔が私たちの心をあれほど深く打ったのでしょう。元宮道子さんがなぜペコちゃんと呼ばれたかというと、不二家のペコちゃんの笑顔とそっくりな素敵な笑顔を私たちに見せてくれていたからでした。

私は元宮道子というお名前がいつ付けられたのか、いろいろと調べてみました。ご両親が付けたのか、それとも聖母愛児園のシスターが付けたのか。不思議なことですが、現在横浜の聖母愛児園の園長をルーテル教会引退牧師の森勉先生が務めておられますので、電話をして問い合わせてみましたが、そのことは分かりませんでした。しかし分かったことが一つあります。昭和28(1953)年8月2日、愛児園に入所してひと月ほど経った頃、ペコちゃんは洗礼名メアリーという名前をいただいて受洗していたという記録が残っていました。1970年にむさしの教会三鷹集会所で賀来周一牧師より洗礼を受けておられますから、カトリックとプロテスタント、ダブルで洗礼を受けておられたことになります。人の二倍、神さまからの祝福を受けたということになりましょうか。

私はなぜ名前にこだわったかといいますと、伊東婦長さんからのお話を伺いましてから「元宮道子」というお名前がとても象徴的に思えてきたからです。ペコちゃんは、そのお名前の通り、私たち人間にとって一番大切な心の一番奥底にある神さまの神殿(元宮)を指し示す、道のような役割を果たした神さまの子どもだと思えてきたのです(ヨハネ14:6)。

ペコちゃんはいつもマイペースでした。そしてなかなかペコちゃんとのコミュニケーションは難しかったと思います。よく首を振ったり、手をたたいたり、指をトレモロのように鳴らしたりしていました。私にはそれがペコちゃんが命のリズムを刻んでいるのだと思えました。霊安室に安置されていた時に、職員の方々がペコちゃんが好きだったものを一杯テーブルの上に置いてあったのですが、誰それを見て木実谷先生は「たくさんあるね。誰よりも一杯置いてあるんじゃないか」とおっしゃられました。ペコちゃんは人気者だったのでしょう。ペコちゃんは黄色いアヒルが大好きで、そこにはアヒルのおもちゃが一杯置いてありました。マヨネーズも大好きだったとのことで、これまた黄色です。着るものに黄色やオレンジ系が多かったのもそのあたりから自然にそのようになっていったと伺いました。でも病床では次第に職員の手を握るようになり、そのような触れ合いを求めてくるようになっていったということも婦長さんから伺いました。手を握って、言葉をかけてくれた職員の皆さんにペコちゃんはどれだけ深く励まされたかことかと思います。

マザーテレサはこう言っています。「人間の価値は一生の間、何を自分に獲得したかでにあるのではない。何を他者に与えたか、何を人々と分かち合ったかにあるのだ」と。ペコちゃんはじつに多くのものを私たちに与えてくれましたし、多くのものを私たちに残していってくれたのだと思います。人間が生きる上で人と人とのつながりというものがどれほど大切なものであるか、愛というものがどれだけ大きな意味を持っているか、ペコちゃんは自分の十字架を背負い、イエスさまに従うことの中で、力いっぱい証ししてくれたのだと思います。

「みんな、ありがとう!」

ペコちゃんの戦いは終わりました。先程イエスさまの言葉を読んでいただきました。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
(マタイ5:3-10)

これらの多くの言葉はペコちゃんの人生と重なり合うのではないかと思います。ペコちゃんのご生涯には祝福が一杯備えられたのです。

キリスト教では死は終わりではありません。復活ということを大切に考えています。言わば、死は一つの狭き門のようなものなのです。そこをくぐり抜けると神さまの光の世界が待っていると聖書は告げています。

「ターミナルケア」という言葉があります。末期医療とか終末医療とか訳される事が多いのですが、それでは事柄の半分も訳していないことになります。ターミナルという言葉は、確かに終点とか終着駅という意味もありますが、同時に、分岐点とか乗換点という意味があります。京王多摩センターにもバスターミナルがあるでしょうか。バスターミナルのことを思い起こしていただくとよく分かると思いますが、そこは一つの路線の終点であると同時に別の路線の出発点でもあるのです。ですから、キリスト教で言うターミナルケアというのは死に向かっての準備という意味ではありません。新しい命に乗り換えてゆくための準備を意味しています。祈ったり讃美歌を歌ったりすることが、そのようなターミナルポイントに備える役割を果たしたのだと思います。

ペコちゃんは今ごろ天国にあって先に召された小林提樹先生やヘンシェル先生、愛する者たちと共に、例のペコちゃんスマイルと命のリズムを刻みながら、大きな慰めと喜びと平安との中に置かれていると信じます。ペコちゃんの安らかな寝顔はそのことを証ししているように思います。そのお顔はこう言っているように私には思えます。「みんな、ありがとう。本当にお世話になりました。私には家族はいなかったけれど、みんなが私のかけがえのない家族でした。この島田療育センターが私の温かいお家だった。みんなと出会えて本当によかった。ありがとうございました。」

天上はにぎやかになったかもしれませんが、この地上は寂しくなりました。ここにお集まりのお一人おひとりの上に、またこの島田療育センターの上に、神さまの豊かな慰めとお支えがありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年6月9日  元宮道子姉前夜記念式説教。於島田療育センター)