ヨハネ福音書 14:15-21
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。「わたしはあなたをみなしごにはしない。」
私たちは聖霊降臨後の主日を過ごしています。このところは毎週ヨハネ福音書を通してイエスさまのみ言葉を聞いているのですが、今日の「特別の祈り」にありましたように「あなたの聖なる息吹を与えて正しいことを考え、それを実行できるように導いてください。」と私たちは祈りました。神さまの息吹、神さまの聖霊、そして神さまからの風、それが私たちを生かす、それが私たちの心を生き返らせる、という思いをもって今日も礼拝でみ言葉に聞いてまいりたい、と思うのです。「安息日」というのは「安らかな息」と書きますけれども、私たちが礼拝を通して神さまの息吹をいただいて、ともすれば呼吸が乱れがちだった一週間を振り返る。しかし、その中でもう一度呼吸を整えられる、安息を与えられる、安らかな息を与えられる時として、この礼拝を大切にしていきたいと思うわけです。
今日の福音書の日課は先週に引き続いて、イエスさまの告別説教が記されていますヨハネ福音書の14章です。13章でイエスさまが弟子たちの足を洗われた。そして、告別の説教を開始される。弟子たちはこれからイエスさまが何をなさろうとしているのか、どこに行こうとされているのか、自分たちはイエスさまに置いてきぼりをくうのではないか、見捨てられてしまうのではないかという、そういう不安の中に置かれていたことがよく分かる場面が今日の箇所でもあります。
ヨハネ福音書の14章の15節からは「聖霊を与える約束」と題されているところでもあります。神さまからの命の息吹、真理のみ霊である弁護者を派遣してもらうということを、イエスさまが約束をされているところです。父と子とが一つである。そしてそこに聖霊が派遣されていく。ヨハネ版の「父と子と聖霊なる神、三位一体の神」ということがここでは語られているようにも思うのです。大変に今日の箇所では有り難いイエスさまの言葉があります。今日はそこに焦点を当ててご一緒にみ言葉に思い巡らしていきたいと思うのです。
それはこういう言葉です。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あたながたのところに戻ってくる」と。みなしご、孤児にはしておかないと、見捨てられたままにはしておかないと、必ず私はあなたがたのところに戻ってきて、そしてあなたがたをわたしのものとし続けるのだ、ということが語られています。
イエスさまはいつも(人々と真正面から)向かい合って、イエスさまの周りにいる人たちの気持ちを、その心の底から、深く受け止められた方であると思います。周りの人たちの悲しみとか苦しみとか、深い言葉にならない呻きさえも、ご自身の中心をもって、はらわたをもって受け止められた方であるということが、聖書の中では繰り返し語られています。例えばマルコ福音書の6章には「群衆が飼う者のない羊のような姿であることを深く憐れまれた」という「イエスさまの深い憐れみ」という言葉が出てまいりますけれども、これまでもたびたび申し上げてきたように、この「深い憐れみ」という言葉は、日本語で「憐憫」とか「同情」という言葉で理解しようとするとちょっと違っている。もっと「はらわた」という言葉、「内臓」という言葉からきているのですが、「断腸の思い」という言い方があるように、はらわたがよじれるほどの深い思い、痛みを伴うような思いというそういう思いをもって、周りにいる人たちの悲しみとか苦しみとかをイエスさまがご自身の存在の中心で受け止められたということだということを、これまでも繰り返し申し上げてまいりました。羊飼いのいない、誰も飼う者のいない羊のような(私たちの)不安、恐れ、あるいは悲しみ、迷い、そういったものをイエスさまは、私たち以上によく理解してくださって、受け止めてくださっているのだと思います。
「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。」「あなたがたのところに戻ってくる。」という言葉は、弟子たちのそのような深いところにある思いを、不安な思いや恐れ、これからどうなっていくのかという先の見えない閉塞感というものをよくイエスさまが感じとって、受け止めておられればこそ、そこに向かって語られた言葉であるということだと思います。自分たちは見捨てられてしまうのではないか、みなしごになってしまうのではないか、イエスさまは自分たちを置いてどこかへ行ってしまうのではないか。告別の説教を聞きながら、弟子たちは、そういう不安に捕らわれたのだと思います。そしてそこにイエスさまはこの言葉を語りかけている。
見捨てられ不安の中に響く存在是認の声
「分離不安」と言いましょうか。「見捨てられ不安」というところに焦点が当たっていると申し上げることができると思います。そしてこれは特にこのヨハネ福音書の14章のセッティングに限るものではないと私は思うのです。私たちが今この現実の中で、私たちの人生の中で置かれている状況は、この(弟子たちの置かれていた)状況とは全く違うかもしれません。しかし、私たちがこの言葉、イエスさまの「あながたを決してみなしごにはしておかない」という言葉を自分の言葉として受け止めることができるとすれば、深いところに響いてくるものとして受け止めることができるとすれば、それは私たち自身の中に「みなしごにされてしまうのではないか」という見捨てられ不安というか、分離不安が深く根付いているからだと私は思うのです。私自身もまた自分の中を見つめるならば、そういうい気持がどこかにあるように思います。それはそういう体験を私たちが小さい頃から育ってくる中で繰り返し体験してきたからではなかったでしょうか。いうなればそういう分離不安というものは生きていく上では拭い去ることができないものであると言うことができるかもしれません。(生きることに)必ず付きまとってくる不安とか寂しさを抱えながらも、私たちは子供からだんだん大人になっていく。そしてそのような寂しさとか、恐れとか不安を抱えながらそれに耐えて、今まで歩んできましたし、親元から自立をして、自分自身の家庭を築いていく、あるいは自分自身、子育てをしていく、という体験を積み重ねてきたのではなかったかと思います。
そのように見てまいりますと、イエスさまの『わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない』という言葉は、私たちの奥底にあるそういう思いに向かって語られた言葉であるかのように思えるのです。おそらくあの(むさしの教会聖檀前の壁はステンドグラスです)ステンドグラスに描かれた羊飼いの腕に抱かれた子羊は、想像ですけれども、あの子羊は迷子になっていたところを見出されたあとに、ああいうふうに抱かれているのではないかと思うのです。同じように『あなたがたをみなしごにはしておかない』というそのイエスさまの声を、その懐に抱かれる中で、羊飼いに抱かれる中で聞きとっていたに違いないと私は思うのです。
そしてまた、考えてみますならば、この言葉は、同じ響きを持つ言葉をイエスさまご自身が、天の父なる神さまから繰り返し繰り返し、その生涯の中で、聞きとってゆかれた言葉でもあったと思うのです。例えば、この聖檀の前にはあの白い大きなハトが垂直に上から降って来る姿が描かれています。あれはイエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた場面を表しています。その時に聖霊がハトのような姿をとって降ってきた。と同時に、天からの声が響きました。マルコ福音書の1章の11節にあります。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」。これは神さまがこれから公の歩みを始めようとするイエスさまに対して存在を丸ごと受容する声、「わたしがあなたと共にいる。よし、行きなさい!」と言って派遣をしてゆく、存在を根底から肯定する是認の声であると私は思います。
そして同じような声が、マルコ福音書の9章にあります高い山の上で、山上での変貌の出来事の中でも聞こえます。イエスさまがペトロとヤコブとヨハネだけを連れて山にお登りになったときに、律法の代表者であるモーセと預言者の代表者であるエリヤと一緒に語らった。御衣と顔が真っ白く光り輝く中で、天から声がやはり聞こえます。「これは私の愛する子。これに聞け」。天からの声は繰り返しこのように、イエスさまに向かって、あるいはイエスさまの周りの弟子たちに向かって響き続けていた。イエスさまがしばしば独りきりになって寂しいところに退いて祈られたということも、祈りの中で神さまからそういう確かな声を聞き続ける必要があったからではなかったかと私は思えてならないのです。
人生の要所要所で、イエスさまは天の声によって生かされていった、支えられていったのです。そして、その声によって押し出されていったのだ思います。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」というイエスさまが弟子たちに向かって語られた声は、実は天の父なる神さまがイエスさまに向かって語り続けた声のエコーである、と思うのです。「わたしはあなたを決して見捨てない。どのようなときにもわたしがあなたと共にいる。いつもあなたと共にあるのだ。だから安心して行きなさい。安心して自分に与えられた使命を果たしていきなさい」。そういう声として、私たちは今日のこの声を聞きとることができるのだと思います。
弁護者としての聖霊が派遣されるという約束があるのも、まさにその聖霊の注ぎ、神さまの命の息吹を通して、私たちが礼拝を通しみ言葉を通して、そのような存在を根底から是認してくださる神さまの声を聞きとっていく。そういう場が与えられているからであると思います。「父と子が一つであるように子と弟子たちも一つである。イエスさまと弟子たちも一つである。その絆はどのようなことがあっても断ち切られることはない。」ということが今日の福音書の日課のポイントではないかと思うのです。
親子愛~強君と父親
そのように考えてきます時に私は、今までも何度かご紹介をしてきたことがありますけれども、思い出すエピソードがあります。2000年の読売新聞、もう8年も前の読売新聞に紹介されていて、知ったことでありますが、大変大きな反響を呼んだエピソードです。そのエピソードがまとめられて書かれているのが、この姫路で精神科医をされています森下一という方の書いた『不登校児が教えてくれたもの』という本にまとめられた事柄です。この森下一さんというお医者さんは、もう三千ケース以上も不登校、ひきこもりの子供たちに、家族にかかわり続けたその体験をもとにこの本を書いているんですね。その中に出てくるエピソードを読売新聞が紹介をしていて、私はそのことを通してこの本を知りました。それはこういうエピソードでした。七年間にわたって13歳の時から20歳の時まで、七年間もひきこもっていた一人の少年の話です。「強くん」という少年。この少年は親御さんと一緒にこの森下先生のところに、ずっと七年間カウンセリングの治療を受け続けるわけです。受けても受けてもよくならない。その中であるときに大変に強くんが危険な状態にあるということに、この森下先生は気付くんですね。そしてご両親に連絡をします。どうかくれぐれも目を離さないようにと言って連絡をする。そういう中である出来事が起こりました。あるときに強くんは自分に自らガソリンをかぶって火をつけようとしたのであります。自殺をしようとしたのです。とっさに父親が強くんに後ろからしがみついて、こう叫びました。「火をつけろ。私も一緒に死ぬから」。大変に心に残るエピソードであります。
「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」
このような文章が読売新聞に載ったのでございます。そして、この本を読みますと、「共生の思想」、「共に生きる」ということだけではなくて、「共に死ぬ」「共死の思想」こそが共生の思想を支えるのだという言葉が出てまいります。「強、火をつけろ!」と。「一緒に死ぬから!」と言って、どん底でそのようにしっかりとひしと抱きとめられるそのような絆の中で、初めて自分が愛されている、生かされているということに気付かされていく。その体験は、強くんにとってそれまでも変わらずに注がれてきたであろうその親の愛情が、20歳、20年間かかってその瞬間に初めて、本当のものとして自覚されたということだと思います。私はそのお父さんの絆、愛情の深さと同時に、七年間もたゆまずにあきらめずにずっと強くんにかかわり続けてこられたご家族や、あるいは精神科医の森下先生のそのような忍耐強い深い愛情といったものの大切さというものに、心を動かされる思いがするわけです。
人間が、私たちがどのような時に本当に生きていてよかったということを感じるのか。それは真実の愛(を感じる時)しかないのだと思います。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と、イエスさまはヨハネ福音書の13章と15章で繰り返しておっしゃっています。『わたしはあなたがたを決してみなしごにはしておかない』という今日の言葉は、その間に、置かれています。『そして、わたしの愛の掟を守りなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』というイエスさまの言葉は、あの十字架の出来事が、ガソリンをかぶって火をつけようとする、死のうとする、滅びようとする私たちを、後ろからしっかりとがしっと支え抱きとめてくださったお方の強い愛を表している出来事だと思います。
そしてその十字架を見上げる時に、そのキリストの声を確かなものとして私たちは受け止める時に、私たちは本当の意味で、罪や恥やいろいろな苦しみから解放されて、このような私でも生きていてよいのだ、生きてよいのだということを心の底から新たにされる中で、深く感じることができるのではないかと思うのでございます。
「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。」というイエスさまの確かなみ声をこの新しい一週間も、私たちはしっかりと聞きとって歩んでまいりたいと思います。命がけの、共に生き、共に十字架の上で死んでくださったそのお方の愛によって、支えられ、抱きとめられ、そして押し出されて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。
お一人お一人の上に確かな主の御手の守りがありますように。特に、病いの床にある者、悲しみのうちにある者たちの上に、イエスさまの愛の息吹が吹きこまれますようにお祈りをいたします。
祈り
一言祈ります。恵みの父なる神さま。
あなたは私たちを決して見捨てることはないということを、今日イエスさまのお言葉を通して、示してくださいました。そのような子に対する強い愛の絆を私たちは、そのみ言葉の中に受け止め感じることができたように思います。どうかその確かな声を深く味わいながら、この新しい一週間、日々を共に過ごしていくことができますように。この声の中に、羊飼いの声の中に、私たちを守り導いてください。どのような状況の中にあっても、私たちがイエスさまが共にいてくださるというリアリティーを持つことができるならば、そこにおいて守られ、状況を乗り越えていくことができるのだと思います。どうか、様々なことが起こりますけれども、キリストの愛によって私たちを満たしてください。しっかりと抱きとられているということを深く体験することができますように。一人一人の心の内にあります祈りに合わせまして、私たちの救い主、十字架の主、羊飼いであるイエスさまの御名によってお祈りを申し上げます。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(テープ起こしをしてくださった山口好子姉のご奉仕に感謝します。)