よく知られた精神病理学者たちの多くは、「弱さ」とでも云うべきものを持っています。
またそこから逃げようとせず、それを土台に偉大な業績を残しました。ジグモント・フロイトは神経症に苦しみ、その結果が精神分析という偉大な理論を生み出すに至りました。
アルフレート・アドラーは、幼少時に「くる病」に罹患しており、このことが彼の器官劣等性の理論展開に寄与していると言われています。人は弱点を持つことによって、成長していくのだという考え方です。カール・グスタフ・ユングは無意識の世界から生じるある種の幻覚とでもいうべきものを持っていましたが、かえってそのことを活かして、無意識の世界を深く掘り起こし、彼独自の無意識に関する理論を開発しました。無意識の奥底に人は元型と言われるイメージを持っていて、それが人生を動かすという説です。
例えば、男性は女性イメージのアニマ、女性は男性イメージのアニムスなるものを持ち、それによって結婚相手を決めるとか、人生にはトリックスターなるいたずら者が働いていて、急に運がむいたり、とんでもない不幸に落ち入ったりするというのです。
アンリ・エレンベルガーは、その著「無意識の発見」上下巻(木村、中井監訳、弘文堂発行)の中で、これらの人々は創造の病を持っていたのだと言います。「弱さ」、「弱点」と云うべき病がなければ、こうした偉大な理論は生まれなかったからです。
「弱さ」は大切な宝物です。自分の「弱さ」を知る者は、他者の「弱さ」に共感し、その「弱さ」を受容することができます。「弱さ」を「知る」とは、単に知識として知ることではありません。自分の「弱さ」と向き合い、体験的に「気付き」として捉え、それを対象化することを意味します。そうすることで、自分の「弱さ」に執着することなく、またそこから逃げることなく自分の責任で保持することが出来るようになります。そうなって初めて「弱さ」が、成長するための己の道具となるのです。
たとえば人を愛するという場合、言葉で言うことは容易いでしょう。しかしこれを体験的に愛せざるを得ない真実にしようとするなら、裏切られた、拒否された、こじれた、意地悪をされた等々のいやな経験があってこそ、あるべき真実の愛が必然的に見えてくるのではないでしょうか。それこそ、自分の「弱さ」と向き合う経験をしなければ見えてこない世界でもあります。
その意味では、わたしたちは自分の経験の中で大なり小なり、日常の中で、「傷つく」、「辛い」、「苦しい」こと、それらをひっくるめて、自分の「弱さ」とでも云うべきことを経験しています。それらの中に、わたしたちを前進させる本物の「強さ」を発見するはずです。そのような視点から我が身を見れば、またひと味ちがった自分が見えるのではないでしょうか。パウロは言いました。「わたしは弱い時にこそ、強いのです」(Ⅱコリント12 章10 節)と。