たより巻頭言『ニューヨーク・イン・ザ・ウィンド』 大柴 譲治

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。」(詩編137:1)

今年も9・11がやってくる。あれから二年。毎日のように悲しいテロ事件が報道される。憎悪が憎悪を呼び、敵意という終わりのない怒りの連鎖が延々と繰り返される。何という悲しみ、何という痛み。どうすれば人間は殺し合うことをやめることができるのか。殺された者やその家族の無念の嘆き声が大地のそこかしこから聞こえてくるような気がする。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4:10)。カインに対して、アベルのために、アベルに代わって声を上げてくださる神。「復讐するは我にあり」。私たちの信じる神は殺された者たちの無念さをご自身の懷が抉られるような痛みとして背負ってくださる神である。そしてその復讐を、み子の十字架の血潮によって成し遂げてくださる神である。

私の手元に二枚のDVDがある。アメリカ滞在の記念として入手したものだ。題して『クリスティーナ&ローラ~ニューヨーク・イン・ザ・ウィンド』春夏編と秋冬編。日系人演奏家が奏でるヴァイオリンとチェロの音楽に合わせて、1998年のニューヨークの四季の変化がハイビジョンで美しく撮影されている。そこには、あの9・11で破壊された世界貿易センタービルのツインタワーが高く美しい姿を見せている。この映像がこれほどまで悲しい記憶を刻みつけるとは思わなかった。あの事件以降、しばらく見ることができなかった映像でもある。音の調べはどこまでも透き通っていて美しい。

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。」バビロン捕囚の無力さの中で涙した人々。しかしこの涙は自らの中だけに留まっていてはならない。共感の涙として、敵味方の違いを越えて多くの人々の流す涙とつながってゆかなければならない。キリストの十字架とは、この悲惨な現実のただ中にそのような涙の共同体を形成してゆくための出来事ではなかったのか。キリストも涙された。柳の木々に掛けられた竪琴はそのようなキリストの悲愛に共鳴して鳴り始めるのだ。

    この明るさのなかへ
    ひとつの素朴な琴をおけば
    秋の美くしさに耐へかね
    琴はしづかに鳴りいだすだらう
             (八木重吉)


(2003年 9月号)