たより巻頭言「アインザッツ」 大柴 譲治

「われを見たもう救いぬしの愛に満つるひとみ、罪をゆるし、やすき与え、いのち満たしたもう。嘆きいたむわれを捕らえたもう神の愛のひとみ、わが主のまなざし。」(教会讃美歌298番3節)

 砂場などで遊ぶ幼子は時折母親のまなざしを確認しようとする。それを見出せないと不安になり、見出すと安心して再び遊びに没頭してゆく。同じように私たちもまた人生において愛する者のまなざしを探り求める時がある。それは私たちが自分に自信を失ったり、不意に苦難に襲われたようなときである。ただそばにいてくれるだけでよい。ただそのまなざしを向けてくれるだけでよい。私たちはどこか深いところでありのままの自分に対する無条件な肯定を必要としているのだ。そのようなあたたかいまなざしの中に自分が置かれていることが確認できるとき、私たちは安心して自分の生に没頭することができるのである。その意味で、キリストのまなざしは私たちの生に対する無条件の「然り」である。

 学生時代、マンドリンクラブで体験したことを思い起こす。指揮者の務めの一つに演奏者に対して目と指揮棒でアインザッツを送るという役目がある。幕が上がり、ピーンと張りつめた空気を感じながら指揮台に向かう。聴衆に礼をし、拍手が鳴り止むのを待っておもむろに指揮棒を上げる。最も緊張する一瞬である。演奏者は一心に指揮者を見つめ、指揮者も演奏者をぐるっと見回して自分の視野に入れる。互いに目を合わせるのである。心を落ち着かせ、指揮者は自分の呼吸を意識しつつ時を待つ。曲のテンポを頭で思い描きながら待つ。そして時が来たら瞬間呼吸を止め、決然として大きく息を吸いながら指揮棒を振り上げる。指揮はいつも一拍前から始まるのだ。出だしの一拍目が指揮棒で叩かれる瞬間、指揮者も演奏者も息を吐き出している。両者の息がピッタリと合うところから音楽は響き始めるのである。目を合わせるということ、息を合わせるということの大切さとすばらしさとを私はそこから体験的に学んだ。

 礼拝で大切なことも司式者と会衆とがまなざしを合わせることであり、呼吸を合わせることであると思う。そしてそれは、あのステンドグラスに描かれた羊飼いキリストのまなざしの中で起こる出来事なのである。

 今は四旬節。十字架を見上げたい。