ガラテヤの信徒への手紙 3:1-14
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。ガラテヤ書連続説教~これまでの流れ
使徒パウロのガラテヤ書をこのところ連続で読んでいます。今日はその第5回目で、3章前半部分になります。1-2章でパウロは自分の使徒性について語っていました。パウロは自分が「人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(1:1)ということを力強く語ってきました。「イエス・キリストの啓示」を通しパウロは神によって「異邦人のための使徒」として「母の胎内にあったときから選び分けられ、恵みによって召し出されていた」というのです(1:15)。2章でパウロは、エルサレム教会の「おもだった人たち」(主の兄弟ヤコブ、使徒ペトロ、使徒ヨハネなど)との関係を注意深く記しながら「エルサレム使徒会議」(AD48年春頃と推定されます)について報告していました。そこでは、エルサレム教会はユダヤ人伝道に、アンティオケ教会は異邦人伝道に、車の両輪のようにそれぞれ邁進することが確認されたのです。そこでは異邦人キリスト者に対しては律法遵守を求めないというパウロの主張が通りました。
そして、使徒会議の一年ほど後の出来事でしょうか、異邦人との共同の食事から身を引いたペトロをパウロが公然と非難したという「アンティオケ事件」についても2:11-14で触れられていました。実はそれは、エルサレム使徒会議では曖昧なままに残されていたユダヤ人キリスト者の律法遵守に関する対立であったとも申せましょう。「人を分け隔てない神」(2:6)はすべての人を「律法の行い」によってではなく、ただ「信仰」によって義とするのだとパウロは繰り返し宣言します。この点に関しては異邦人もユダヤ人もないのです。ダマスコ途上で復活のキリストから呼びかけられて劇的な回心を遂げるまでのパウロは、誰よりも律法遵守に熱心であり、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3:6)でしたから、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(ガラテヤ2:16)という言葉には説得力があります。
パウロは次のように告白します。「わたしは神に対して生きるために、モーセの律法に対してはキリストの律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信実(ピスティス)によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(2:19-21。なお、下線部は大柴の私訳)
ガラテヤ教会にも律法遵守を求めるユダヤ人キリスト者たちが入り込んできて混乱が生じていました。彼らは(1)パウロの使徒性を疑い、(2)異邦人キリスト者にも割礼を求めた、のです。つまり異邦人キリスト者に「ユダヤ人化」を求めたのです。2:14でパウロはペトロに「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」と言っていましたことを思い起こしてください。その混乱を収拾するためにパウロはこの手紙を書いているのです。3章から5章まではパウロはいよいよ律法問題を取り上げます。
律法によるのか、信仰によるのか
ガラテヤ地方の諸教会の多くはパウロによって始められました。ですからパウロはガラテヤ教会のメンバーに対して父親のような真剣さと親密さで接しています。そのことが3:1の表現からはよく分かります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」これは「おお、何と愚かなガラテヤの人々(オー、アノーエトイ、ガラータイ! Oh, you foolish/stupid Galatians!)」と直訳できる言葉です。率直な表現ですが、そこからはパウロの真剣さ、必死さが伝わってきます。これまで抑えてきた思いが爆発したような表現です。パウロはガラテヤの人々を大切に思えばこそ、放ってはおけないのです。「うるさい親ほどあったかい」というCMが以前にありましたが、私たちは真剣に自分に向かい合い、自分に対して真剣に怒ってくれる存在のこと(具体的には、まなざしと声と息づかいと)を決して忘れることはできません。パウロがペトロをなじった(叱責した)時も、ペトロは主イエスのあの離反予告のことを思い起こしたに違いないと私は思います。真剣に関われば関わるほど、私たちはこのような率直な熱い言葉が出てくるのです。そして私たちにはこのように厳しくても向かい合ってくれる存在がどうしても必要なのです。
金曜日(8/20)の東京老人ホームの礼拝でイスラエル統一王国の最初の王であるダビデの罪についてお話ししました。それは2サムエル11章に記されています。ダビデは自分の部下ウリヤの妻バテシバの美しさに目を奪われ、自分のものとして彼女を妊娠させた末に、結局ウリヤを最前線に送って戦死させてしまうのです。続く12章には、預言者ナタンが神によって遣わされダビデに次のようなたとえ話をします。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」(2サムエル12:1-7)。
私たちは確かに人から言われないと自分自身の罪を自覚することができないようです。ナタンと同じ真剣さで、パウロはガラテヤ教会の人たちに語っているのです。パウロはここでガラテヤの人々に「イエス・キリストの十字架につけられた姿がはっきりと示されたこと」を思い起こさせています。十字架のキリストのリアリティーを忘れてはならないのです。このキリストのリアリティーを通して信仰は <向こう側から> <聖霊によって> 与えられるのです。
パウロは続けます。「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(創世記15:6)と言われているとおりです。(ガラテヤ3:2-6)
ローマ書4:3でもこの言葉はパウロによって引用されていますが、その後でパウロはアブラハムが義と認められたのが割礼を受ける前であったことを指摘しています(ローマ4:9-12)。
「祝福の源/基」としてのアブラハム
アブラハムはその召し出しを受けたとき神から「祝福の源/基」となると宣言されました。創世記12章の始めには次のようにある通りです。主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(創世記12:1-5)
この「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」という神の言をパウロは解釈してガラテヤ3:7-14に次のように書いているのです。この部分は元ファリサイ派のエリート律法学者であったパウロの面目躍如とも言うべき箇所です。彼はここで自由自在に、自らの解釈を加えながら、旧約聖書から引用しているからです。旧約聖書からの引用は5つにのぼります。この部分はじっくりと味読すべき箇所でもあります。
(だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、①「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(創世記12:3)という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。②「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27:26)と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、③「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク2:4)からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。④「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(レビ18:5)のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。⑤「木にかけられた者は皆呪われている」(申命記21:23)と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。(3:7-14。なお、実際の説教ではこの部分は割愛した)
キリストを信じる者が、信仰を通して、「祝福の源/基」とされた「信仰の父」アブラハムにダイレクトにつながる者であることをパウロはここで証明しています。神の救いのご計画を知り、パウロは目からウロコが落ちたに違いありません。パウロはダマスコ途上で復活の主と出会うことで、旧約聖書はキリスト・イエスにおける神の救済を最初から指し示していたということに目を開かれたのです。それまで若きファリサイ派律法学者として学んでいたことが、すべて意味あるものとしてつながったのです。パウロにとって自らが「異邦人の使徒」として召されることは「母の胎内にある時から」神が定められたことだった。そのことがキリストとの出会いの中で分かったのです。
キリストは十字架に架かることで自ら「呪い」となってパウロ自身を「律法の呪い」から贖いだしてくださいました。そしてそのキリストの十字架の出来事は、パウロやユダヤ人だけのためではなく、異邦人を含めたすべての人間の救いのためだった。キリストの「ピスティス(信実/まこと)」に与ることによって私たち異邦人もまた、「アブラハムを通して与えられた神の祝福」に与ることができ、約束された神の聖霊を信仰を通して受けるためだったのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、「時」が満ちた時に、御子を賜ることを通してこの世を救おうとされていたのです。神の救いのご計画は聖書全体を貫いて明らかとなっています。私たちは信仰による神の祝福に生きるのです。私たちもそのような神の救済の歴史の中に置かれていることを覚えたいと思います。まことに「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。・・・神のなされることは、皆その時にかなって美しい。」(口語訳聖書、伝道の書3:1、11)と言わなければなりません。
お一人おひとりの上に神さまの」祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2010年8月22日 聖霊降臨後第13主日説教 ガラテヤ書連続説教05)