たより巻頭言「樹齢75年」 大柴 譲治

大学で林業を学んだことのある友人の話。「林業というのは本当に長いスパンで物事を捉えてゆく学問なのです。木の成長を50年、100年というゆったりした単位で捉えてゆく。それはそれは気の長い仕事です。自分たちが伐採する木は自分の父や祖父の時代に植えられたものですし、今植えている木は自分の子供や孫の代に実ってゆくものなのです。」

 含蓄のある言葉だと思う。教会の桜も樹齢40年を越えているが、確かに木の成長は気の遠くなるようなゆっくりしたスパンの中で起こる。この言葉は現代人が忘れてしまった大切なものを教えている。私たちは待つことができなくなっているのだ。いつもせっかちに答えを求めている。何事においても迅速に対処するためのマニュアルを求め、それがないと不安になる。おたおたしていると情報洪水の中で溺れてしまうかのようである。現代人は一分一秒でもスピーディーであることを競う。しかしそのような速さを求める中で、本当の意味でのゆっくりと時間をかけた人間存在の成長というものが見失われてしまう。「人間」とは英語では human doing ではなく human being と書くのだ。

 パウロは語った。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(1コリント3:6-7)。教会の成長も木と同じである。むさしの教会も10月8日に樹齢75年を数える。木の成長を50年、100年単位で捉えてゆく必要があるのと同様、教会もそのようなゆったりしたペースで見てゆく必要がある。神さまは何とスケールの大きな、ゆったりした視点を私たちに備えてくださっていることか。ここに私が本当の意味で「私」としてじっくりと生きてよい human な being の場がある。75年に渡るこの地での神さまのみ業をご一緒に喜び祝いたいと思う。宣教75周年に乾杯!