たより巻頭言「いやし 」 江藤直純

 「いやし」、この言葉は誰の耳にも不思議な響きを伝える。外科的、内科的とを問わず病んだ肉体や精神・神経を治療するという意味を含むが、それ以上の何かが込められているように感じる。

 この言葉、たしかに怪しげな、うさん臭い場合もある(それを売り物にしている時など要注意!)。しかし、「いやし」には、病んだからだの治療にとどまらない、いわば全人的な、「いのちの本来の姿への回復」と、それに伴う、なんとも言えない安らぎや平和な思い、魂の奥深くからの喜びなどをもたらす次元がある。

 いまどき「いやし系」などと言うときの、心身をほっと和ませる音楽や飲み物やキャラクターなどは、その一面である。疲れた生活が求めるのであろう。

 では、それらが与える「いやし」と、主イエス・キリストがもたらしてくださった、そして今もなおわたしたち一人ひとりにもたらしてくださる「いやし]との違いはなんだろう。

 ガリラヤで視力が回復したり再び歩けるようになることも起こった。けれどもイエスさまがなさる「いやし」は必ずしも奇跡的な治癒ばかりではない。身体や精神・神経の疾患が治らなかったり、障害が続いたり、死が避けられなかったりすることの只中にも、あるいはかけがえのない人を喪失した時の悲しみに、わたしたちは「いやし」が起こることを見たり聞いたり自ら経験している。

 それはなにか。いのちの根源である神さまとの破れた関係の回復による、有限な自分自身の受容、人々との和解、そして永遠のいのちへの希望である。どれひとつとっても、重く大きい、そして、たまらなく喜ばしい出来事である。