たより巻頭言「教育は祈り」 大柴 譲治

 すばらしいものと出会った時の喜びは大きい。それは、ある時には真実の言葉であり、ある時には音楽や大自然の美しさであり、また別の時には献身的な愛の行為であるのであろう。確かに真・善・美といったものには普遍的な価値があるように思う。「芸術は爆発だ!」と言った岡本太郎と同じように、出会いの喜びの中で「人生は感動だ!」と叫びたい気持ちにもなる。

 2月2日付の朝日新聞の夕刊に「読者が考える宗教と教育」という記事が載った。どれも心に残る意見だったが、特に55歳の教員の方の投書に深く感動した。そこにはこうあった。

 「養護学校に勤務して20年。『教育は祈り』が結論です。重い障害のためにしゃべることもなく横臥する子どもたちがいますが、その成長を応援し、はぐくむ力があるとすれば、それは子らに対する親や教師の思いや願い、突き詰めれば『祈り』と思わざるをえません。
  この確信は、人間という不思議な存在に対する畏敬の念と、ともに生きているという連帯感によっていますが、その両方が養護学校特有のものではない限り『教育は祈り』ということはすべての学校、すべての子どもに共通していえるのではないでしょうか。
  畏敬の念とか祈りという言葉は、ともすればうさん臭いものとして敬遠されがちですが、それらは特定の目的のためのものではありません。すべては、まず教師自身が自然や宇宙などに対する畏れを知ること、人間の不思議を考えることに始まると思います」。

 大江健三郎の「信仰を持たない者の祈り」と題した講演を思い起こす。自分の小ささを知り、自分を超えた大いなるものに向かって祈りつつ共に生きるということは、信仰の有無や宗教の違いを超えて私たちの心を打つ。「教育は祈り」という、20年の体験から得た貴重な知恵を大胆に分かち合ってくださった小圷(こあくつ)洋司氏に感謝したい。

 1月31日に教会の総会が終わった。私たちもまた、父なる神への畏れをもって祈りつつ、この新しい年の歩みを始めてゆきたい。詩編にも明らかなように、私たち信仰者にとっては生きることのすべてが祈りなのだから。