たより巻頭言「ハーフ」でなくて「ダブル」 大柴 譲治

 コップ半分の水の話である。コップに水が半分入っている。この現実を見る見方に二つある。「もう50%しかない」と見るか「まだ50%もある」と見るかである。一つの現実が異なった二つの現象に見えるというのが興味深い。

 英語では half empty または half full という表現になり、言わんとすることがより明確になる。「もう50%しかない」というのは100%、つまり満杯となっている上端を基準として空っぽの部分を見ているのに対して、「まだ50%もある」というのは0%、ゼロである下端から50%入っている水の部分を見ている。上から見るか下から見るかの違い、あるいは100%からマイナスの方向で見るか0%からプラスの方向で見るかの違いであると言ってもよい。一つの同じコップ半分の水という現実が全く異なった現実として受けとめられている。

 よく私たちはないものねだりをしてしまう。持っていないものを欲しがり、持っているものを大切に考えない。マイナス指向で考えているとも言える。

 しかし実は、私たちには信仰によってゼロの視点が与えられている。パウロは・コリント4・7で自らを「土の器」と呼ぶ。しかし、この欠け多き土の器にはキリストという「宝」が入れられている。ゼロとなった、空っぽとなった私の中にはキリストの愛が豊かに注がれている。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。パウロはキリストと出会うことで自分のゼロさに気づかされた。

 私の妻が6月21日の礼拝後に証言をしたが、この国際結婚を通して、また子どもたちが与えられることを通して私に示された大切な視点がある。彼らは「ハーフ」ではなくて「ダブル」なのだ。二つの祖国を持つ者として、また「国籍を天に有する者」(フィリピ3・20)として、私たちはこの世にあって、この世とは異なった視点に生きるよう召されているのだ。これは小さな気づきであるが、大きな気づきでもある。