【音声・テキスト】2020年7月12日 説教「虚しくならない言葉」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第六主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書13章1~9、18~23節



言葉には力があります。人を生かす力も、そして、人を殺す力も…。心無い中傷が人を死に追い込むこともある。
皆さんもご経験があるのではないでしょうか。何気無く言われたその一言が人生を変えるきっかけになったり、力づけられたり、励まされたり、活力を生むような、そんな経験が。逆に、その一言で傷つき、心が折れてしまい、へたり込んでしまうようなことが。

言葉には力がある。そして、一旦口から出てしまったものは、なかなか取り消すことができません。だから、気を使います。牧師になってつくづく感じたことは、言葉の難しさ、です。何度失敗したか分かりません。特に、最近のこのコロナ禍にあっては、直接会うことが難しくなりましたので、メール等のやりとりが増えたと思います。それが、また難しい。面と向かい合っていれば、その都度相手の表情などから、ひょっとしたら誤解されているかもしれない、言葉足らずだったかもしれない、と修正も効きますが、メールだとなかなかそうはいかない。書かれた言葉の印象がダイレクトに伝わってしまうことがある。

しかも、人によってその言葉の印象が違っていることもありますから、より誤解を生じやすいようにも感じています。家内から、近頃は学校で生徒たちにSNS等でのやり取りでは感情を載せない、と指導されていると聞きましたが、然もありなんと思いました。

一方で、虚しい言葉も多いように思います。最近、あるテレビ番組で、このコロナ禍にあって、政治家の言葉よりも専門家の言葉の方に耳を傾ける人たちが多くなっている、と指摘されていました。つまり、政治家よりも専門家の方が信頼されている、ということでしょう。確かに、政治不信は長年続いています。また、政治家の言葉が軽くなってきたとも言われ続けてきました。

どうも、政治家たちの言葉が、自分たちの権勢のためであったり、保身のためであったりといったようにしか聞こえなくなってきている。何か問題が起こるたびに「わたしに責任がある」と言い続けてはいても、一向に責任をとっているようには見えて来ない。しかし、では、これらは政治家だけの問題なのか、といえば、もちろんそうではないでしょう。私自身、この虚しい、空虚な言葉は大きな課題でした。牧師は語るのが商売です。しかし、自ら語っておきながら、その言葉が空々しく思うことがあったのも正直なところです。語っていながら信じきれていない自分がいた。そんな言葉は、やはり軽いと思いました。役に立たないと思いました。仕事だからと語らざるを得なかった自分が嫌で嫌で仕方がありませんでした。信じていない、実行性・実現性のない、経験・体験のない言葉は、やはり重みがない。

私には、あまり好ましいとは思えない生い立ちがあります。自分でもどうしようもなかった、荒れた思春期を過ごしました。長い間救いの確信が持てず、信仰的な試練を経験しました。そして、息子との死別を味わいました。どれも、私にとっては幸いとは思えない出来事です。しかし、これらの出来事が、少しばかりの言葉の重みを与えてくれたと、今では感謝しています。今では、これらも含めて全てが神さまの恵みなのだと受け止めさせて頂いています。

今朝の福音書の日課は、よく知られた『種まきのたとえ』です。ここで私が話さなくても、もう皆さん内容をしっかりと思い起こされることでしょう。四つの地に種が撒かれる。一つは道端。一つは岩地。一つは茨の生い茂る中。そして、もう一つが良い土地。果たして、私は一体どの地なのだろう、とついつい考えてしまいます。一見、非常に分かりやすい譬え話ですが、それは18節以下にイエスさまが解説してくださっているからです。このイエスさまの解説があるからこそ、私たちはすぐにでもイメージができる。その解説の中で、この撒かれた種が「御国の言葉」だということが分かります。

つまり、神さまの言葉と言っても良いと思います。その神さまの言葉について、イメージ巧みにもっともよく教えてくれているのが、先ほどお読みしました今朝の旧約の日課、イザヤ書55章の言葉でしょう。55章8節以下「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。

『種まく人』ジャン=フランソワ・ミレー 1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館


キリスト教は「ことばの宗教」だとも言われています。聖書の最初、創世記の創造物語からも、それは明らかです。神さまは言葉によって世界を造られました。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。言葉は人格を表します。だからこそ、言葉は思いと意志の表れとなります。ですから、神さまの言葉は決して虚しくはならないのです。なぜならば、その気のない言葉では決してないからです。「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。

これが、神さまのことば。それを私たちは信じる。神さまの言葉は「必ず成る(実現する)」と信じる。それが、私たちキリスト教信仰だと思います。ですから、今日の譬え話も、それを前提として受け止める必要があるのではないでしょうか。撒かれた種が神さまの言葉ならば、決してその種は無駄になることはないなずです。必ず芽が出て成長する。たとえどんな土地であっても。なぜならば、土地に左右されないほど、この種には、神さまの言葉には力があるからです。それが、大前提です。では、イエスさまはなぜあのような話をされたのか。

イエスさまはガリラヤ湖のほとりに舟に乗られて、その舟の舳先に腰を降ろされて教え始められました。抜けるような青空の元、水面がキラキラと輝き、イエスさまを囲むように佇む人々の足元にまでさざ波が迫っていたました。その人々に、イエスさまはまっすぐに目を向け、遠くまで通るはっきりとした声でこう語られた。「耳のある者は聞きなさい」。

イエスさまは神さまの言葉の力を信じていました。誰よりも信じていました。信じて、御国の福音を伝えていかれました。しかし、目の前に広がる現実は、あまりにも神さまの言葉が届かないように思えるものでした。だからといって、すぐにでも、私たちのように神さまの言葉の力を疑うようなことではなかったと思います。あくまでも神さまの言葉の力を信じ続けていかれた。最後の最後まで信じていかれた。確かに、そうだと思います。

しかし、同時に、この言葉を受け取る側にも促さずにはいられなかったのだと思うのです。聞く耳を持って欲しい、と。神さまの言葉を受け取って欲しい、と。ちゃんと自分のものにして、しっかりと深く根を下ろして、豊かな実を結ぶまで諦めずに歩み続けて行って欲しい、と。目の前の群衆を前に、そう思わずにはいられなかった。そう思うのです。

私たちにも、そんな実感がある。私たちだって、神さまの言葉の力を信じることが大切なことは分かっています。それが、私たちの信仰生活に求められていることも分かっている。しかし、どうも、それでは心もとない気もしてきます。なぜなら、種が成長しているようには思えない現実も、私たちは嫌という程実感させられているからです。だから、地が気になる。種は大事だし、種に力があることは認めるけれども、やはり土地が悪からではないか、と思えてくる。ですから、最初に言いましたように、私たちは自分が一体どの地なのか、と不安になる訳です。道端なのか、岩地なのか、茨なのか、良い地なのか、と。
撒かれた種…、神さまの言葉よりも、地…、つまり自分自身が決定打になるのではないかと思えてきます。しかし、果たして、この話を最初に聞いていた弟子たちはどうだったのか、と思う。彼らは、果たして多くの実を結ぶ「良い地」だったのか。

弟子たちは道端に撒かれて取り去られてしまったもののように、最後の最後までイエスさまについて不理解でした。ちっともイエスさまの真意を分かっていなかった。また、弟子たちは、岩地に落ちたもののように、試練に遭うとあっさりとイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。また、弟子たちは茨の地のように、イエスさまがご自分の受難について語っている矢先に、誰が一番偉いかなどと言い争って、地位・名誉といったこの世の関心事ばかりに心奪われてもいました。もともと「良い地」だったとは到底思えない。むしろ、私たちと同じと言うべきか、今言いましたように、道端、岩地、茨の地としか思えな
いのです。では、なにが違っていたのか。

イエスさまの元を離れて行った多くの群衆たちと一体何が違っていたのか。それは、イエスさまと共に生きた、ただそれだけです。多くの群衆たちは、あ~良い話が聞けた、良くは分からなかったけれどもイエスさまがおっしゃるんならありがたい言葉だ、大した話じゃなかった、時間の無駄だ、と楽しんだ者も不満だった者も、ただそれだけで帰っていきました。しかし、弟子たちはイエスさまに尋ねたのです。尋ねることができたのです。なぜなら、一緒に生きていたからです。一緒に生きるからこそ、イエスさまと共に生きているからこそ、分からないことがあれば尋ねることができる。間違っていれば正してもられる。上手くいったときには喜んで褒めてくださる。一緒にいればこそ。それが、途方もなく嬉しいし、力になる。

今年から新しい聖書日課になりましたが、実は毎主日の日課には詩篇も取り上げられています。時間の都合もあり、今は読むことはしていませんが、今日の日課である詩篇65編10節以下に、こう記されていました。「あなたは地に臨んで水を与え 豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え 畝を潤し、土をならし 豊かな雨を注いで柔らかにし 芽生えたものを祝福してくださるからです」。

ここでは、あたかも「良い地」にするのは、神さまご自身なのだ、と言われているようです。私たちは、一体自分はどの地なのだろうと取り越し苦労をしているのかもしれません。種も地も、どちらもが神さまの業、力、恵みなのです。ですから、繰り返しますが、大切なのは、イエスさまと共に生きること。共に生き、常に耳を傾け、分からないことがあれば問い、疑問を投げつけ、反省し、諦めないこと。そうすれば、土地は耕かされ、神さまの言葉である種は自ずと持っている力で成長していくことでしょう。自分は一体どれか、とあれこれ心配する前に、ここに、この原点に帰っていきたいと思います。

 

《 祈り》
・先々週、また先週と九州地方を襲った大雨による大変な被害が出てしまいました。また、岐阜や長野でも大雨による被害が出てしまいました。人的な被害も甚大です。多くの方々が避難所につめかけ、復旧作業にも時間がかかりそうです。このコロナ禍と熱中症の危険もある中での避難所生活も心配になります。どうぞ、被災された方々をお助けくださいますように、ご家族を亡くされた方々の心にも働いてくださいますようにお願いいたします。

熊本地区のルーテル教会でも物資の支援などで地域に貢献されているようですが、その働きもお守りください。ご自身たちも被災されている中でのお働きかもしれません。どうぞ心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。また、九州をはじめ、かつてないほどに大雨と長雨が続いています。今後も大雨の降る可能性が高いとも聞きます。どうぞ、これ以上の災害とならないようにお守りくださいますようにお願いいたします。

・5日からの礼拝再開を新型コロナの新規感染者数100人超えを受けて延期にしましたが、先週には連日200人超えともなってしまいました。専門家の意見では、今後ますます増えるのではないか、とも予想されています。先日、新型コロナによる重症患者病棟の映像を見ました。非常に重篤な患者と向き合う医療現場の緊迫した、そして生々しい映像が映し出されていました。このところ、重症化しにくい若年層の感染増や重症患者数の現象などで、どこか緊迫感が薄れてしまっているのかもしれませんが、一旦重症化しやすい方々が感染した場合、本当に大変なことになってしまうことを改めて思わされました。

確かに、経済も生かさなければならないことも事実ですが、どうぞこのコロナ禍を生き抜く良き知恵をお与えくださいますようにお願いいたします。感染された方々もお癒しください。

・このコロナ禍で食糧不足、貧困がより深刻化しています。北朝鮮でも餓死者が多数出ているのではないかと予測されています。どうぞ、憐れんでください。国の指導者たちが、政府が、私たち市民一人一人が、弱き者たちを顧みていくことができますように、そんな世界となっていくことができますようにお導きください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン



※カバー絵画:『種まく人』ジャン=フランソワ・ミレー 1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館