【 テキスト・音声版 】2020年8月16日 説教「それでも諦めない」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十一主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書15章21~28節

私たちは昨日75回目の終戦の日(ある方々は「敗戦の日」と言った方がふさわしいと言っていますが)を迎えました。今年はコロナ禍で、いつもとは違う夏を過ごしていますが、その中で広島、長崎をはじめたとした様々な平和記念式典も縮小を余儀なくされました。しかし、その記憶、また平和への思いは決して小さくしていいものではありません。

むしろ、新たな冷戦構造と言われる今日、改めてその記憶を呼び覚ましていく必要性が、歴史から学び取っていく必要性があるように感じています。そして、祈っていく必要性が…。もちろん、これまでも私たちは祈ってきました。平和を願い、祈り求めてきました。しかし、その祈りが実現されているとは思えない現実に、私たちは疲れてしまっているのかもしれません。しかし、今朝の日課は、そんな私たちに、諦めずに祈ることを教えてくれているように思います。

今日の福音書の日課は、イエスさまから信仰を褒められた女性の物語です。では、この女性の何が素晴らしかったのか。それは、ひとことで言えば「諦め」なかった、ということでしょう。イエスさまから無視されたり、冷たい態度をとられたり、辛辣な言葉をかけられても、諦めなかった。最後の最後まで食い下がった。願い続けた。祈り続けた。それが、「あなたの信仰は立派だ」と評価されたことのように思われるからです。そして、その結果、彼女の願い通りに娘は癒されました。祈りが叶えられたのです。こう聞くと、私たちは途端に不安になります。なぜならば、私たちにはこの女性のような信仰はない、と思わされるからです。

私たちは、これまで数え切れないほど祈ってきました。もちろん、その中には習慣化された祈りや、心のこもっていない祈りも多々ありますが、それでも真剣に、切なる願いを捧げた祈りもあったはずです。しかし、はっきりいって、祈りが叶えられたことはありませんでした。少なくとも、願い通りになったと思えることはなかったように思います。そして、おそらく、私たちはこう思ったはずです。私たちの信仰が至らなかったからではないか、と。祈りの真剣さが、熱心さが足りなかったからではないか、と。

つまり、自分のせいで祈りが聞かれなかったのではないか、と思ったはずです。つまり、この女性のようにはなれなかった、この女性の信仰には遠く及ばなかった、と。ですから、私たちはこういった物語を読むと、確かに素晴らしいな、と思いつつも、どこか距離感を感じるといいますか、自分とは縁遠い物語と思ってしまうようなところもあるように思うのです。

確かに、この女性の信仰は素晴らしいのかもしれません。イエスさまがお褒めになったくらいですから…。しかし、こういった可能性も否定できないのではないか、と思います。もともと彼女の信仰が素晴らしかったというよりも、そのような信仰が引き出されていったのではないか、と。私自身、振り返ってみたとき、そうとしか思えない…、つまり自分自身がもともと持っていたというよりも、不思議と与えられたといいますか、どこからともなく引き出されてきたといいますか、そうとしか思えない体験を幾度も積み重ねてきたからです。

この女性は「カナンの女」だったと記されています。つまり、ユダヤ人からすれば異邦人、異教徒です。ご存知のように、ユダヤ人は異邦人、異教徒を蔑視していました。他の神々を信奉する、律法を守ろうとしない異邦人を、神さまから呪われた者とみなしていたからです。もちろん、これは聖書の曲解から来ているわけですが、今日の偏見、人種差別と似ているところがあるのかもしれません。

ともかく、大方のユダヤ人…、信仰に熱心であればあるほどそういった態度を異邦人にしてきた訳ですが、一方の異邦人はと言えば、そんな態度に出ているユダヤ人たちを当然快くは思っていなかったはずです。この女性も、そうだったのではないでしょうか。どこかでイエスさまのことを耳にしたのでしょう。

しかし、果たしてすんなりと助けを求めに行けたかどうか…。あんなユダヤ人の助けなど借りたくもない、と思っていたのかもしれません。もちろん、娘のためにあらゆる手を尽くしてきたと思います。高名な医師、呪術師がいると聞けば、遠方であろうと訪ねにいっていたのかもしれません。それこそ、借金をしてまで娘のために、と頑張ってきたのかもしれない。しかし、一向に娘は良くならない。むしろ、悪くなる一方です。もう他に打つ手はありません。あのユダヤ人イエスを頼るほかないのかもしれない。

 

しかし…。そんな葛藤を日に日に繰り返していたのかもしれません。しかし、目の前で苦しんでいる娘の姿を見て、ついに覚悟を決めました。この娘が助かるのならば何でもしよう。恥も外聞もない。もうなりふり構ってなどいられない。娘が助かるのなら、もう怖いものなどなにもない。そう、「母は強し」。一度心が決まれば母親は子どものためならばなんでもできる。そんな強い覚悟をもってイエスさまを訪ねたのではないでしょうか。

そこで、この女性はイエスさまに嘆願します。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。スルーです。鬼スルーです。イエスさまは何もなかったかのように、歩みを進められます。しかし、この女性はめげません。そんなことは織り込み済みです。ユダヤ人を相手にするのですから、それも覚悟の上です。女性はあらんかぎりの声を張り上げて叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。どうか、娘を助けてください」。鬼気迫る様子だったのでしょう。

とうとう鈍感な弟子たちを動かすほどでした。「そこで、弟子たちは近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。一見すると鬱陶しいから追い払って欲しいと願っているように聞こえますが、ある方は、この女性の願いを叶えてやってください、という意味ではないか、とおっしゃっています。私もそう思います。弟子たちは、あまりにこの女性が不憫になって、願いを叶えてやって欲しいととりなしたのではないでしょうか。ところが、イエスさまも負けていません。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。ある意味、正論です。確かに、イエスさまはまず契約の民であるイエスラエルの人々を立ち返らせるために宣教の業を行なっていたからです。おそらく、この女性はこのやりとりも聞いていたのでしょう。しかし、怯まず、イエスさまの前に回り込み、ひれ伏して願いました。「主よ、どうかお助けください」。

最初に、この箇所を「祈り」と言いましたが、祈りに置き換えてみますと実によく分かります。私たちも、同様の体験をしているからです。切羽詰まって覚悟を決めてイエスさまに助けを求めました。しかし、何も答えてはくださいません。しかし、それも、覚悟の上です。おいそれとは諦められないからです。ますます熱心に祈ります。果たして私なんかの祈りに応えてくださるのだろうか、と不安になりながらも、叶えていただきたい願いがあるからです。この女性をここまで突き動かして来たのも、そんな思いがあったからでしょう。どうしても娘を救っていただきたかった。ただ、その一心で…。

そんな彼女に対して、あろうことかイエスさまはこんなことを言われました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。一瞬、この女性は固まってしまったのではないでしょうか。犬? 小犬だって? 私の愛する娘を、自分の命と引き換えても惜しくないと思っている私の娘を小犬だって? もういい。疲れた。この人は助けてはくれないのだ。娘と一緒に死のう。そこまで考えたのかもしれない。しかし、この女性の口から出て来た言葉は不思議なものでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。この女性はそう言いながら、自分でも驚いていたのかもしれません。

私は、この女性のような良い祈りができたわけではありません。むしろ、噛みついた方です。私も祈りました。涙を流しながら切に祈りました。のたうち回りながら祈りました。しかし、神さまは何も応えてはくださいませんでした。だから、噛み付きました。恨みをぶつけました。悪態の限りを尽くしました。しかし、不思議と悔い改めの祈りを捧げていたのです。私の願ったことは何一つ叶いませんでしたが、神さまの存在自体を知らされたように思います。

この女性は、「主よ、ごもっともです」と応えます。愛する娘を犬呼ばわりされても、「ごもっともです」と応えます。あなたのところには遣わされていないので、あなたの希望に応えることはできないと言われても「主よ、ごもっともです」と応えるのです。ここには、もはやただ自分の願望だけを叶えたいという女性の姿は見えません。むしろ、あなたに賛成します、という相手への全幅の信頼を感じさせます。その上で、私の願いにも心を留めてください、との信頼関係からの祈りの姿が見えてくるように思うのです。

皆さんは12年間も出血の止まらなかった女性の物語をご存知でしょう。この女性も藁にもすがるような思いでイエスさまを訪ねたのでした。その衣に触れることができれば癒されるだろうと信じて。そして、その通りになった。この女性の病が癒されたということは、その信仰が働いたことは明らかです。しかし、イエスさまはそれだけでは終わらせなかった。人混みに紛れているこの女性を必死に探された。なぜならば、願いが叶っただけでは本当の出会いにはならないからです。

出会うということはそういうことです。一人の人格的な存在と向き合うということは、そういうことです。イエスさまは、私たちの願いをなんでも「はい、はい」と聞いてくれる便利屋でもロボットでもないのです。そんな関係性をイエスさまは望んではおられない。イエスさまが望まれているのは人格対人格の触れ合いだからです。そこまで、その出会いにまでイエスさまは私たちを引き上げてくださる。

私たちの祈りなど、所詮願望を叶えるためだけのものです。苦しい時の神頼みにすぎません。目的が達成されれば、もう用済みです。そんなものは、真の祈りにもならないし、真の信仰にもならない。イエスさまと、神さまと出会ってこそ、真の信仰、祈りになっていくのです。いいえ、そのように整えられていく、変えられていく、引き出されていくのです。

私たちは、何を諦めないのか。自分たちの願いを、願望を押し付けていくことを諦めないのではありません。イエスさまの前に立ち続けることを、求め続けることを諦めない、ということです。たとえ無視されているように思えても、望みが断ち切られているように感じることがあっても、そこには必ず意味が、御心があるからです。そして、自分の願いがその通りに叶うとしても、そうでないとしても、必ず私たちの祈りが聞かれた結果でもあるからです。そのことを覚えながら、神さまの御前に立ちつつ、御心を尋ねつつ、諦めずに平和を祈っていくものでもありたい。そう願わされています。

Christ and the woman of Canaan キリストとカナンの女 ピーテル・ラストマン(Pieter Lastman)アムステルダム国立美術館


《 祈り 》
・戦後75年を迎えました。あの戦争を体験した方々も少なくなり、ますます国としての記憶が薄れていっているように感じます。また、私たちの国は、なぜあのような悲劇が起こってしまったのか、しっかりとした検証を行わずに来てしまったようにも感じます。ですから、体験者の減少と共に、教訓もまた薄らいでいるように感じています。次の世代に記憶を、教訓を継承していくことにも熱心ではありませんでした。あれほどの大きな犠牲の上で学ばされたことです。

また、唯一の被爆国としての苦しい経験もあります。また、被害者としてだけでなく、加害者としての意識も忘れてはいけないと思います。私たちは、多くの命を失い苦しみましたが、同時に、多くの国々の多くの人々の命を奪い、苦しめてもきました。戦争の愚かさを、これほど味わってきた、噛み締めてきた国、国民もそうそうないのではないか、と思います。そんな私たちの国だからこそ、もっと世界の平和に貢献できるはずではないでしょうか。しかし、残念ながら、そのようには見られない現実があります。私たちは、大いに反省する必要があるのかもしれません。

これは、この国に住む私たち一人一人の問題でもあるからです。どうぞ、赦してください。そして、憐れんでください。尊い犠牲の上に学ばされたことを忘れないように。多くの叫びと涙ではじめて気付かされたことを見失わないように。どんなに高尚な理由があろうとも、武力では何も解決しないのだ、ということを見落とさないように。平和を作っていく国になっていけるように、どうぞ私たち一人一人を、国民を、国を導いていってくださいますように、切にお願いいたします。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。沖縄などでは、すでに医療機関が逼迫している状況です。医療機関の負担が増している地域も多いでしょう。どうぞ憐れんでください。医療従事者の方々をお守りくださいますように。また、感染がおさえられ、重篤化する方もでませんように。

また、この夏も災害級とも言われる暑さが続いて熱中症が心配されますが、特にご高齢の方々をこの熱中症からもお守りくださいますようにお願いいたします。新型コロナも落ち着いて、通常通り礼拝が再開されるようにもお導きくださいますようお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン