【 テキスト・音声版】2020年10月4日 説教「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十八主日礼拝説教



マタイによる福音書21章33~46節

今日の日課も譬え話になります。この譬え話は、先週の二人の息子の譬え話…、父親からぶどう園で働くように言われた兄の方は、最初は嫌がって断った訳ですが、後で思い直してぶどう園に行った訳ですが、弟の方は最初は快い返事をしておきながら結局は行きま
せんでした。そこから、父親…、つまり神さまの望みに答えたのはどちらか、ということで、結局は弟のような祭司長や民の長老たちのような宗教的指導者たちではなくて、彼らが罪人と忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちの方が兄のように神さまの望みに答えたことになると結論づけられた訳です。つまり、早い話、イエスさまに権威についての問答を迫った宗教的指導者たちを非難するためだった訳です。そして、今朝の譬え話もその流れの中にある譬え話となる訳です。

今朝の譬え話は、イスラエルの歴史を、そして今を、これからを表しているように思われます。ここで言われている「ぶどう園」はイスラエルの民たちを表すのでしょう。その民たちを養い、成長させ、実を実らせるために、神さまは「農夫」たちにその管理をお任せになられました。そして、その「農夫」こそが宗教的指導者たちです。もちろん、それは、現在ばかりでなく過去をも含めてのことでしょう。神さまは必要な時期に、事あるごとに僕たちをこのぶどう園に遣わされました。つまり、預言者たちです。しかし、彼らはそんな預言者たちを、袋だたきにしたり、殺したり、石で打ち殺したりしてしまったと言います。

旧約聖書を読んでいきますと、迫害されなかった預言者などいないかのようです。では、なぜそんなにも神さまが遣わされた預言者たちを彼らは受け入れようとしなかったのか。悔い改めを迫られたからです。預言者たちは、民たちの誤りを説き、悔い改めを迫っていきました。しかし、それが気に入らない。望まない事柄ばかりを語る預言者たちが鬱陶しく思えて来る。自分たちが信じている、理解している、またそうであって欲しいと望んでいる神さまの姿とは別の事柄を語ってやまない彼らを、偽物としか思えない。神さまに反する者としか受け止められない。だから、神さまの名の下に迫害する。殺していく。本当は、そんな預言者たちこそ、神さまが遣わされた人々だったのに。

前述のように、先週の譬えのところでも、宗教的指導者たちが弟の側になってしまったのも洗礼者ヨハネを受け入れなかったからだと言われています。逆に、罪人であった徴税人や娼婦たちが兄の側になれたのは、洗礼者ヨハネを受け入れたからです。悔い改めを説いていった、赦される必要性を語り聞かせていったヨハネの言葉に心動かされたからです。ただ、それだけの理由で、罪人である彼らは神さまの望みに応える者になれた。

ぶどう園と農夫のたとえ Marten van Valckenborch Parable of the Wicked Husbandmen between 1580 and 1590 Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria イエス・キリストが中頃左上で2司祭に話しかけている。山間のぶどう園、遠景には美しくのどかな街並み、右下で集団で使用人を殺している農夫が描かれている


そして、彼ら宗教的指導者たちは、神さまが最後に送られたご自分の子・御子を受け入れないどころか、十字架にかけて殺してしまった。これから起こることです。では、なぜ彼らはイエスさまを受け入れなかったのか。殺すほどに憎んだのか。妬みのためだ、と言われます。確かに、そういった一面もあったでしょう。しかし、そんな彼らの信仰観とイエスさまの言動とが、ことごとく食い違っていたからでもあると思うのです。特に、彼らが許せなかったのが、イエスさまが罪人たちの友となられたことでした。彼らは神さまの戒めを守りません。汚れた不道徳な生活を送っています。宗教的熱心さも圧倒的に欠けています。そんな彼らは、指導者たちにとっては裁かれて当然な人々なのです。神さまに呪われて、罰せられて当然な人たちなのです。

自分たちとは明らかに違う。そんなやつらと同じ空気を吸うだけでも汚らわしい。そう思う。なのに、イエスさまはそんな彼ら罪人こそが神さまに招かれているのだ、と言う。彼らこそ、神さまに救われるべき人々だ、と言う。そして、同じ空気を吸うばかりか、食事さえも共にする。そんなやつは許せない。そんなやつが神の子であるはずがない。そうです。彼らからすれば、イエスさまを殺す理由があった。それこそが、正しい、神さまの望みに答えることだと疑わなかった。しかし、それこそが、神さまが遣わされた独り子を殺すことになるのだ、と語られているのです。

では、そんな宗教的指導者たちだけが問題なのか、といえば、そうではないでしょう。なぜならば、43節でこう記されているからです。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。ここで「ふさわしい実を結ぶ民族」と言われているのは、異邦人のことです。彼ら宗教的指導者たちばかりではない。ユダヤ人全てが、異邦人を蔑視している。

なぜか。彼らは罪人だからです。神さまに従おうとしない人々だからです。だから、滅ぼされても当然だと思っている。つまり、どちらにしても罪人は滅びるのだ、それが神さまの御心なのだ、私たちは彼らとは違う、私たちこそ救われるのだ、といった思いは共通なのです。それが、神さまの御心なのだと彼らは信じ疑わなかった。しかし、イエスさまは違う、とおっしゃる。そうではない、とおっしゃる。悔い改めて(神さまに立ち返って)全ての人が、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが全ての人々が救われることが、赦されることが神さまの御心なのだ。

そう語られている。つまり、真に神さまが望まれる実りとは、そんな神さまが遣わされた御子、救い主を信じることなのです。そのために、預言者たちも、洗礼者ヨハネも、またイエスさまも来られた。

ぶどう園の小作人 Jan Gerritsz Sweelink October 作成: 1624年と1645年の間。背景にはある村と川が描かれ イエス・キリストが右下の2人の司祭に話しかけている 左側で使用人を殺している農夫の1人(邪悪な夫のたとえ話) が描かれている


イエスさまの、神さまのこの思いは、この言葉に集約されていると思う。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人
を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイ9:12~13)。兄の方と言われた徴税人や娼婦のような罪人以外の、宗教的指導者たちや多くのユダヤ人たちは、このイエスさまの思いを受け取ろうとはしなかった。では、私たちはどうか。本当にこのイエスさまの思いを素直に受け取っているだろうか。神さまの望みに応えているだろうか。

やはり、私たちにも、素直に、罪人のままで、欠け多き存在のままで、イエスさまの懐に飛び込んでいくのを躊躇してしまっているようなところがあるのではないだろうか。もっとしっかりしてからでないと、こんな自分ではダメではないかと思ってしまっているところがあるのではないだろうか。ありのままで、赦しを信じて、この招きに応えることができているだろうか。あるいは、自分のことは棚に上げて、人々の欠点にばかり目が向かってしまい、あんな人は相応しくない、と勝手にレッテルを貼っているようなことはないだろうか。

なぜあんな人が教会にいるのか、と批判的になってはいないだろうか。あんな人たちとは一緒にされたくない、と自分を特別視しているようなことはないだろうか。勝手に教会は敷居が高いと思い込んでいるようなところはないだろうか。赦しの中に生きていることを忘れて、殊更背伸びをして疲れ切ってしまってはいないだろうか。人の目が気になり、比較ばかりをして、自分は何もできない、役に立たない人間なのだ、と落ち込んではいないだろうか。

イエスさまはこうおっしゃる。イエスさまはそのために来たとおっしゃる。そして、イエスさまはそのためにこそ十字架で命を捨てられた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この方を信じることこそが、私たちに期待されている実りです。

 

祈り
・早いもので今年も10月に入りました。急に朝晩が涼しくなり体調も崩しやすくなっていますが、どうぞ心も体もお守りくださいますように。特に体調を崩しておられる方、闘病されておられる方、心身ともに疲れを覚えておられる方などをどうぞお守りくださいます
ようにお願いいたします。

・鐘楼の修繕工事も今週には完成予定です。これまでお守りくださいましたことを心より感謝いたします。また、心配された台風等も接近することなく、本当に感謝です。どうぞ、修繕された鐘楼、また新たになった十字架などもあなたのご栄光のために益々お用いくださいますようにお願いいたします。

・法律を無視するような強権的な政治的指導者たちがあちらこちらで立てられていることに危惧を覚えています。国民の支持もあるのでしょうが、力でごり押ししていくやり方は確かにスピード感はあるのかもしれませんが、大変危険でもあります。どうぞもっと冷静になって、国民一人一人が適切な人材を選んでいくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン