聖霊降臨後第十九主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:マタイによる福音書21章1~14節
今朝の福音書の日課も譬え話でした。このところ、譬え話が続いていますが、テーマは共通しています。当時の宗教的指導者たちを非難するために語られたものです。
彼ら宗教的指導者たちは、「宮清め」をしたイエスさまを問いただします。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。なぜならば、宮清めをはじめとしたイエスさまの言動は、彼らにとっては自分たちの宗教的権威を傷つけているようにしか、あるいは挑戦して来ているようにしか思えなかったからです。
先週の繰り返しになりますが、イエスさまの言動は彼らの「当たり前」とはことごとく相入れないものでした。特に、彼らにとって我慢ならなかったのは、罪人たちとの向き合い方です。イエスさまは罪人たちを、正しくない人々を招いていかれた。それが、赦されざる背徳と彼らには映っていた。当然でしょう。私たちにだって同じような思いがある。
相手は徴税人です。特権を傘に私腹を肥やすような輩です。詐欺まがいのことをして稼ぐ悪徳商法と言っても良いのかもしれない。あるいは、娼婦。不道徳な生活をしている女性です。そんな人たちは地獄行きだ、とまでは思いませんが、しかし、あえて付き合いたいとは思わないでしょう。できれば、そんな人たちとは関わりを持ちたくないと思う。そんな社会で評判の人たちが教会に来て御覧なさい。あなたたちのような人々が来るようなところではない、と追い返すようなことはしなくとも、内心は何でうちに来たのか、早く帰ってくれないかな、もう二度と来ないでほしい、と思わないだろうか。そんな彼らを「ふさわしくない」と忌み嫌う気持ちも分からないわけではない。
しかし、イエスさまは彼らこそが神さまに招かれている、と語られる。正しく生きて来たあなた方以上に、神さまはそんな彼らをこそ待ち望んでおられるのだ、と教えられる。それは、自分たちこそが「ふさわしい」と思ってやまない宗教的指導者たちにとっては、とても受け入れられるようなものではなかったこともうなずけるように思います。
しかし、実はそれが罪なのです。いかにそれが正しく思われても、正当な理由のように思えても、神さまの御心よりも自分たちの思いを優先させることが罪なのです。そういう意味では、宗教的指導者たちが忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちは、まさに罪人だった。いろいろと理由を挙げては、神さまから離れていることを、御心に従い得ないことを正当化し、自分たちの「生」を顧みることをしなかった彼らは、確かに罪人だったのです。そういう意味では、宗教的指導者たちの指摘もあながち間違ってはいなかった。
しかし、そんな彼らは預言者たちの言葉を聞いて、洗礼者ヨハネの宣教に触れて、そして何よりもイエスさまの招きによって悔い改めていきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そう、罪人が悔い改めていのちを得ることこそが、何よりの神さまの御心だから、なのです。だからこそ、悔い改めた罪人こそが神さまの御心に叶ったことになる。それが、今までの譬え話の言いたかったことですし、その思いが、今朝の譬え話の中にも流れている訳です。
今朝の譬え話の前半には、王さまが催された王子の婚宴に招かれていた人々が来なかったことが記されていました。王さまとは神さまのこと、王子とはイエスさまのことを指していることは明らかです。その婚宴に宗教的指導者たち、あるいはもっと広く言えばイスラエルの人々が招かれていた。これは、大変名誉なことでしょう。普通の人々が王族の婚宴に招かれるようなことはまずないでしょうから。
みなさん、どうでしょうか。ある日突然、皇族の婚礼の祝いの席に招かれたとしたら、腰を抜かすか、あるいはほっぺたをつねりたくなるほどに信じられないことが起こったと思わないでしょうか。そんな、そもそもありえないことが起こったわけです。いわゆる特別待遇です。しかも、招かれているのは婚宴です。婚宴とは、結婚する二人にとってはおそらく一生に一度の人生最大の祝福された時と言えるでしょう。誰もが、幸いを味わえるような時。
当事者はもちろんのこと、その祝いの席に連なる一人一人も、思わず笑顔が溢れるような、祝福と喜びが満ち溢れるような出来事です。お酒も入って、美味しい料理をいただきながら大いなる祝福をいただく。そんな幸いなる、また名誉溢れる婚宴に招かれたのですから、喜び勇んで行かない手はないはずです。なのに、招かれていた人々はことごとく行かなかった。なぜか。「畑に行った」「商売に出かけた」とも記されていますので、理由はいろいろと考えられるのでしょうが、私自身は王子の婚宴だったということも大きいのではないか、と思うのです。
王さまが催す宴会ならば、喜び勇んで出席したかもしれませんが、それが王子の、つまりイエスさまの祝いの席だったからこそ、彼らは無視した、拒絶した、と言えるのかもしれない。王子を、つまりイエスさまを神さまの子どもとして認めていないからです。受け入れていないからです。ともかく、本来その婚宴に招かれるにふさわしいと思われていた人々は、その婚宴に来ることを拒み、「ふさわしくない」者とされてしまったのです。そして、今度は、本来はその婚宴の名簿からは漏れてしまっていた、つまり「ふさわしい」者とは思われていなかった人々が、招かれることとなった。しかも、ちょっと乱暴とも思える手当たり次第の様子で、「善人も悪人」もおかまい無しに婚宴に連れて来られることになった訳です。
これは、先ほど来言ってきましたように、本来「ふさわしくない」と思われていた罪人や、またユダヤ人から見れば「ふさわしい」とは思えなかった異邦人に、イエスさまの婚宴の招きが移ったことを意味する訳です。確かに、そうでしょう。しかし、今日の譬え話には、今までとはちょっと違った意味も加わっていることにお気づきになられていると思います。なぜならば、そのように「ふさわしくなかった」者たちが招かれているにも関わらず、そこから取り除かれる人がいたからです。つまり、「礼服」を着用していなかった人のことです。
この「礼服」については、いろいろなことが言われていますが、婚宴にふさわしい服装から、この「ふさわしさ」という視点は見落としてはならないと思います。つまり、本来的には「ふさわしくなかった」者が「ふさわしくなる」という視点です。しかし、この「ふさわしさ」は資格ではありません。それを受けるに「ふさわしい」資格などないのです。善人でも悪人でも良かったのです。むしろ、本来資格ありと思われていた人々が招きに答えなかったが故に、ふさわしくないとされたほどです。
では、ここで言われている「ふさわしさ」とは何か。礼服を着ることです。ただ、それだけのことです。他の装いではない。婚宴にふさわしいのは、喜びを共に喜ぶ、祝福の中に招き入れられることを心から感謝していく、婚宴に招かれていることをただそのまま喜んで受け取る、素直に祝いの中に身を置く、祝福に預かる一員となる、その装いが婚礼の礼服だからです。言い方を変えれば、その招きをその招きのまま受け入れるということでしょう。
自分はふさわしいかどうかなどどうでも良い。たとえ悪人であってもここに招かれている。だから、その主人のもてなしをそのまま喜びと感謝をもって受け取る、受け入れることこそが礼服を着る者の姿なのではないか、と思う。この招きへの「ふさわしさ」とは、ただそれだけである、ということをもう一度自問自答しながら、その恵みを受け取っていきたいと思います。
《祈り》
・台風と前線による大雨の影響が心配されます。どうぞ大きな被害などが出ませんようにお守りください。
・先週木曜日(8日)に、あいにくの雨の中でしたが十字架の設置も無事に行われ、鐘楼の修繕工事が完了いたしました。まだ足場の解体工事は残っていますが、ここまでもお守りくださいましたことを心より感謝いたします。この新たにされた鐘楼と十字架もあなたが聖めてくださり、あなたのご栄光のためにお用いくださいますようお願いいたします。また、なおもこの教会堂を祝福してくださって、大規模修繕も残っていますが最善なる導きをお願いいたします。
・再び都内でも徐々に新型コロナの感染が広がっているように見受けられます。一旦は落ち着きを見せていた欧米でも再びロックダウンに踏切らざるを得ない状況にあるとも聞きます。長期間にわたるこの新型コロナの影響で、だんだんと注意力が削がれて行ってしまっているのかもしれませんが、あまり気持ちを緩めすぎることなく、個々人においても社会においても、しっかりと感染症対策に引き続き取り組んでいくことができますようにお導きください。
・今年のノーベル平和賞がWFP(「国連世界食料計画」)に決まったと報道されていますが、依然として7億人以上の人々が飢餓で苦しんでいるとも言われています。特に紛争地域では深刻で、またこのコロナ禍でより深刻度が増したとも言われています。どうぞ憐れんでくださり、私たちも含めて多くの人々が支援に動き出すことができますようにお助けください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン