宗教改革主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書22章34~46
本日の礼拝は、宗教改革を記念した礼拝でございます。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、いわゆる「95ヶ条の提題」が掲げられたことによります。ただ、宗教改革と言いましても、500年も前の時代も文化も状況も異なる中での出来事ですので、ぴんとこないのも無理からぬことでしょう。しかし、その時代にあっても、今日の私たちと同様に人は生きていました。生活をしていました。
ペストの大流行があり、貧困も、格差も、差別も、死の現実もあった。その中を、か細い期待と不安を持ちながら人々は生きていた。そんな人の営みということにおいては、今日の私たちと変わらないものがあるようにも思います。そして、その只中で…、その歴史の、現実の只中で神さまが働かれた。ある人(人々)を立てて、御心のままに時代を、世界を導いていかれた。
この宗教改革の出来事に思いを向けるとき、そんなことも考えさせられるように思います。そして、そんな神さまの働きは、あの宗教改革の500年前だけでなく、今日においても、私たちが生きるこの現代においても起こる、起こり得る、いえ、現に起きていると信じることができる。そうではないか、と思うのです。神さまが歴史に、この現実世界に働きかけられる。それも、宗教改革を記念する一つの大切な側面なのではないでしょうか。
「信仰による自由」。宗教改革者ルターが強く訴えたことです。ルターの最もよく知られた著作である『キリスト者の自由』の中にも、そのことがしっかりと記されている。しかし、それらをお読みになれば分かるように、ここでルターが語る「自由」と現代の私たちが考える「自由」とは随分と印象が違っています。ルターが語る「自由」とは信仰と、つまり神さまと深く結びつけられた「自由」だからです。
ここで私がいちいち言う必要がないほどに、この「自由」ということが人類共通の価値であることに異論はないでしょう。「自由」の大切さ、有り難さ、その恩恵を知っている私たちにとっては、いくら経済的な発展が著しいとしても、「自由」が抑圧されるような社会には生きたいとは思わないでしょう。そんな人類共通の価値である「自由」。その本来素晴らしいはずの「自由」が、悲しいかな歪んでしまう現実もある。この自由ということに限らないことですが、悲しいことに何故か私たち人類は、本来は良いものであったとしてもそれらを歪めてしまうことが多いのです。この幸いなる「自由」も、自分勝手・自己中心に歪めてしまうことが多い。人類共通の価値である「自由」の名に元に、他者を圧迫し、搾取し、苦しめることも起こってくる。
それは、今日の福音書の箇所で言えば、「罪の奴隷」ということになるでしょう。私たち人類は、悲しいかなこの「罪の奴隷」なのです。あらゆる良いものを、この罪のゆえに捻じ曲げてしまう。自分の都合の良いように。自分の願を叶えるために。それも、私たちが見ている世界の現実、また私たち自身の中にも巣食っている現実でもあるのだと思うのです。
だからこそ、人類共通の価値である「自由」であっても、それだけではダメなのです。自由でいるように思っていても、それは本当の自由ではない。罪のゆえに歪んでしまっている自由に過ぎない。ですから、その本来良きものである自由を取り戻すためには、私たち以外の別の何かが必要になってくるのです。それが、イエスさまが与える真理だ、と聖書は語る。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
最初にルターの「信仰による自由」ということを言いましたが、今朝の福音書の日課でも、この「自由」ということとイエスさまとが非常に強く結び付けられていることがお分かりになると思います。そして、自由ということを考える上でも、そのことは決して見落としてはならないのだと思うのです。
真の自由とは罪を認める、ということです。自己否定をする、ということです。無力さを知る、ということです。救いの御業(福音)を素直に、そのまま受け入れる、ということです。それらは、真の自由がなければできないことです。なぜならば、それらは、生まれながらの自分に、罪の奴隷である自分に反することだからです。私たちは、何かと理由をつけながら、自分を正当化し、それらを避けたいと思う。私たちにとっては好ましくも、嬉しくもないことだからです。
私たちにとって大切なこととは何でしょうか。何を優先させるのでしょうか。何を真実とするのでしょうか。何に信頼を置き、従うのでしょうか。己か、社会か、それともキリストか…。「真理はあなたたちを自由にする」と言われますが、その真理とはイエスさまの言葉を、み言葉を聞くところからしか、受け入れるところからしか生まれないのです。たとえば、「汝の敵を愛せよ」とのみ言葉を聞く。その言葉をしっかりと受け取る。そこからしか、憎しみを断ち切る、憎悪から、復讐心から解き放たれる自由な道は始まらないのです。
もちろん、それらは決して楽な道ではありません。ある意味、茨の道とも言えるのかもしれない。なぜならば、私たちは憎むことですっきりするからです。復讐心に燃えている方が楽だからです。真理は、イエスさまの言葉は、そんな自分たちの自然な思いを越えていかなければならなくする。それが、辛い…。しかし、そのみ言葉が、イエスさまが私たちの幸いを思って語ってくださっているそのみ言葉が、み教えが、うずくまってしまいそうになるそんな私たちの背中を押してくださる。決して自分では前に向かっていけそうにない思いを抱いていたとしても、力強く前へ、前へと押し出していってくださる。それが、み言葉。それが、イエスさまの真理。
み言葉があるから、イエスさまが私たちを教え諭してくださるから、変なこだわりを捨てる、偏見を捨てる、差別意識を捨てる、そんな自由な歩みが始まっていくのだと思う。もちろん、繰り返しますが、それは決して楽な道ではないでしょう。どうしても祈らざるを得ない道でもある。それでも、そこからしかはじまっていかないみ言葉に照らされた自由への、解放への道があるのだと思うのです。
ルターもそうです。私自身もそうです。皆さんもそうだと思う。このみ言葉によって変えられた人生がある。完全に、とまでは言えませんが、それでも自由とされた人生がある。支えられた人生がある。力づけられた人生がある。いろんな厳しさを乗り越えることができた人生がある。
そして、これからも…。これからも、このイエスさまのみ言葉が、真理が私たちを自由にしてくださいます。生きる上でばかりでなく、死の不安、恐れからも。そうではないでしょうか。そんなみ言葉の現実が、神さまの働きが、今を生きる私たちの上にも確かにあることを、この宗教改革を記念する日に、新たに心に刻んでいきたいと思います。
祈り
本日は宗教改革を記念した礼拝の時を持つことができましたことを心より感謝いたします。当時と今日の私たちの状況とは大きく異なっていますが、それでも、先人たちが力強く信じ証ししていった福音の真理を、またみ言葉に対する姿勢を、私たちもしっかりと受け取り、自分のものとして生きていくことができますようにお導きくださいますようお願いいたします。
私たちの敬愛する姉が、18日にあなたの元に召されていかれました。私たちにとっては悲しく寂しいことですが、今姉はあなたの懐に抱かれ、永遠の平安に預かっていることを信じます。どうぞ、残されたご家族の上に、あなたからの豊かな慰めがありますように。また、その信仰を強めてくださり、なおも力強くあなたにある希望に生かしていってくださいますようにお願いいたします。
本日は特に神学校を覚えて献金をお捧げしています。このコロナ禍にあって神学校も大変な状況にあると思います。どうぞ在校生たちをお守りくださり、このような状況下の中にあっても、その信仰と志を強めてくださり、良き訓練を受けていかれるようにお導きください。また、教職の先生方、チャプレン、職員の方々もどうぞお守りくださいますように。神学生が減少していますが、志をもつ者たちが与えられますようにもお導きください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン