顕現後第三主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書1章14~20節
私たち人間には、「基本的欲求」があるといいます。ある意味、人間らしく生きていく上で必要なものということでしょう。調べてみますと、5つの段階があると言われているようです(一つの学説でしょうが)。最初が「生理的欲求」、次に「安全の欲求」、「社会的欲求(所属と愛の欲求)」、「承認欲求」、そして「自己実現の欲求」。
これについては面白い説明がなされていました。ちょっとそのまま引用してみますと、「無人島に流れ着いたと仮定してみてください。何もない無人島で、あなたはさまざまなものを欲求するはずです。空腹を満たすための食べ物も欲しいし、安全に暮らせる家も欲しいし、話し相手になってくれる友達も欲しい、と思うでしょう。しかし、最初に心配する問題は何でしょうか? きっと『食べ物』であるはずです。食べ物を確保できなければ、すぐに飢えて死んでしまうからです。家や友達がなくてもしばらく死ぬことはありませんが、食べ物は、生命の維持に直結する最も基本的なものですからね。空腹が満たされた後で初めて、『家を造ろう』(安全の欲求)、『ほかに仲間がいないか探そう』(社会的欲求)など、次の段階の欲求へと進んでいくことができます」。
異論はあるかもしれませんが、私は「なるほど」とも思いました。これらについて、今この場でいちいち難しい説明をするつもりはありませんが、確かに私たちが人間らしく生きるためには様々な欲求が満たされる必要があるでしょう。愛されたい・愛したい、といった欲求が。認められたい、といった欲求が。そして、必要とされたい、といった欲求が。それらがバランスよく満たされることによって、私たちははじめて健全に生きられるのかもしれません。しかし、私たちが生きる現実は、必ずしもそうとは言えないものでもあるのでしょう。
40歳を前にして、一念発起して、それまで働いていた牧師を辞めてルーテル学院大学で学ぶために上京してきたのは、2007年のことでした。今から思えば、ずいぶんと無謀なことをしたな、と思います。それまで10年ほど働いてきましたが、退職金は雀の涙ほどで、すぐに底をつき、家族のためにもどうしても働かなくてはなりませんでした。そこで、学校との両立が可能なバイト先を探しました。東京ですから、バイトくらい簡単に見つかるだろうと、正直高を括っていました。しかし、現実は違っていたのです。先ほども言いましたように、2007年ですので、いわゆる「就職氷河期」からはようやく抜け出して少しはマシになっていたのかもしれませんが、それでもまだ大変厳しいものでした。私の学生の頃は、あんなにも分厚かったバイト情報誌が、本当にペラペラなものに変わってしまっていました。
何社も面接にいっては不採用でした。途方に暮れました。書類選考も含めていったい何社くらい落ちたでしょうか。正直、金銭的な緊迫度よりも、まず心が折れました。私はこの社会に必要とされていないのだ、と。多少の自負もあった10年の牧師のキャリアなど、この社会では何一つ通用しないことを痛感させられました。
「就職氷河期」を経験された若者たちの気持ち、精神的な痛みを、ほんの少しですが分かったような気がした瞬間でもありました。衣食住の基本はもちろんのこと–このコロナ禍でこの基本さえも今問われていますが–、希望を持ち、愛され必要とされていることをもし自覚できていくならば、人は生きられる。私は、そう思います。
今朝の福音書の日課は、先週に引き続き「弟子の召命物語」です。もっとも、私たちにとっては、先週の日課よりも馴染みのある物語でしょう。イエスさまはこのように宣教をはじめていかれました。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。有名な言葉です。このことについても、しっかりと考えていく必要を感じていますが、今朝は弟子の召命にポイントを絞っていきたいと思います。マルコによると、イエスさまはこの宣教の開始直後に弟子たちを召していかれました。これまた有名なところですが、ガリラヤ湖の湖畔で網の手入れをしていた漁師たちとイエスさまが出会われ、4人の漁師たちを弟子として迎え入れるために呼びかけられていったわけです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。
そして、彼らはすぐさま、その呼びかけに従いました。なんだか、情景がすぐにでも浮かぶような素晴らしい物語です。そして、私たちキリスト者にとっては、とても印象深い物語でもあるように思うのです。この物語に共感して牧師になっていった人も決して少なくはないでしょう。確かに、そうなのですが、考えてみるとちょっと不思議な物語でもあるように思うのです。そもそも、師匠の方が弟子を探しに行くというのも、なんだか不自然な気がいたします。普通は逆でしょう。その道に入りたいと思えば…、例えば落語家になりたければ、誰でもいいということではないでしょう。あの師匠の噺はすばらしい。私もあんな噺家になりたい。そう思ってその師匠の門を叩くのではないでしょうか。逆に、弟子の側から言えば、よくもそんなにすんなりと従えたな、と思います。
この時のイエスさまは、まだ宣教を始めたばかりの無名者だったでしょう。海のものとも山のものともつかない年若きラビに人生を賭けるなんて。これも不思議。単に弟子たちの決意では説明がつきません。やはり、不思議なことが、この4人の心を、人生を動かすような力が、そう、それこそイエスさまの神的な力が働いたとしか思えません。とにかく、私たちキリスト者にとっては、あまりに馴染みのある風景すぎて当たり前のように受け止めてしまっているのかもしれませんが、考えてみれば実に不思議な出来事なのです。つまり、イエスさまは最初っから、宣教活動のはじめから弟子たちを必要としていたとしか思えないのです。いいえ、もっと正確に言えば、イエスさまはご自身のはじめられたその働きを、ご自身で完結するつもりはなかった、ということでしょう。そうではなくて、最初っから弟子たちに引き継がせることを計画しておられたからこそ、宣教開始のいの一番に弟子たちを召していかれたのです。
しかし、それにしても、それほど必要とされた弟子たちが、あまりにも不甲斐ないことを私たちは知っています。イエスさまの足を引っ張るし、飲み込みが悪くちっともイエスさまの真意を悟らないし、権力争いをしだすし、しまいには師匠を見捨てて逃げてしまう始末です。弟子としてどうか、と思ってしまう。一般論で言えば、そんな弟子は師匠から見限られて、お前はこの働きに向いていないと破門されてしまうのが落ちかもしれません。しかし、ここに慰めがあります。私たちの師匠は、そんな弟子たちを見限ることも見捨てることもなさらないからです。それでも、なお、そんな弟子を必要としてくださっているからです。イエスさまが必要とされているのは、完璧な人間ではありません。不完全で、弱くて、失敗ばかりしてしまうかもしれませんが、「わたしについて来なさい」との呼びかけに、ただ単純に従う人をイエスさまは必要とされているのです。あの弟子たちのように。
イエスさまは今日も、あの弟子たちと同様に、私たちにも語りかけておられるのではないでしょうか。「あなたがたを召したのは、必要としたのは、この私なのだ。だから、安心しなさい。私には分かっている。あなたがたの弱さも強さも全部…。それでも、私は、あなたがたに任せたいのだ。私がはじめた神の国運動を。この世界を救う働きを。私を信じて、与えられた賜物に応じて進めていきなさい」と。そして、この「わたしについて来なさい」と、そう呼びかけられていると思います。
祈り
・先週、アメリカでは新大統領の就任式が行われました。多くの人々が憧れを抱くアメリカでしたが、最近では様々な問題が噴出し、民主主義の危機とさえ言われるようになってしまいました。新型コロナの問題はもちろんのこと、人種問題、格差問題、支持政党による分断の問題など、多くの難題を抱えての船出となりました。また、世界的にも、気候問題をはじめ、様々な世界規模の問題に対するリーダーシップも期待されています。どうぞ、新大統領をはじめとした新政権が、正しい歩みをしていくことができますように、どうぞ守り導いていってくださいますようお願いいたします。
・緊急事態宣言を受け、急激な感染拡大はおさまりつつありますが、依然として高止まり状態で、死者・重傷者も多く出ており、医療の逼迫度も増している状況です。どうぞ憐れんでくださいまして、ますます一人一人の意識を高めてくださり、医療の負担を抑えていくことができますようにお導きください。感染状況が終息していきますように。
また、このコロナ禍にあって、倒産やリストラなどで職を失った方々が多くいらっしゃいます。まずは、生活が守られる支援の手がいち早く届きますように、国や自治体などの働きをお導きください。また、人は必要とされるからこそ、生き甲斐を持って生きられるものです。新しい働きの場など、新たな産業の変化なども求められていますが、どうぞやり甲斐を持って働ける場をお与えくださいますようにもお願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン