顕現後第四主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書1章21~28節
イエスさまには力がある。その言葉に、その行動・行いに力がある。人を動かす力が。物事を動かす力が。人生を変える力が。先ほどお読みしました本日の福音書の日課には、そんなイエスさまの力が記されていたと思います。
先週は弟子の召命物語をご一緒に見ていきました。よく知られた物語ですが、ガリラヤ湖の漁師であったペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネといった二組の兄弟が、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエスさまの呼びかけに応えて、従っていきました。確かによく知られた、私たちキリスト者にとっては慣れ親しんでいる物語かもしれませんが、先週もお話ししましたように、考えてみれば実に不思議な物語です。弟子たちの「従う」といった意志だけでは説明がつかないような物語です。そこに何らかの力…、それこそイエスさまの神的な力が発揮されたとしか思えないような物語です。そして、これも先週も言いましたが、この物語から、後に多くの牧師、あるいは宣教師たちが生まれていったのでした。私自身、そんな牧師たちの末席にいると思います。
まだ教会に通うようになって間もない、聖書に触れるようになって間もない、右も左も分からないような14、5の少年が、突然この招きに出会いました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。まさに、出会い…、出会ってしまったとしか言いようのない思いでした。その言葉が私の心を捉え、離れなかった。ですから、紆余曲折はありましたが、私は牧師となりました。自分から「牧師」といった働きを求めたのではありません。このイエスさまの弟子になりたくて、「人間をとる漁師」になりたくて、当時、それは「牧師」になることとしか思い浮かばなくて、牧師になりました。私にとってその選択はいまだに不思議でしかありません。
イエスさまには力がある。その言葉に、その行動・行いに力がある。人を動かす力が。物事を動かす力が。人生を変える力が。私自身は、ほんのわずかかもしれませんが、その力に触れた思いをしています。確かに、人生が変えられたのですから…。
イエスさまの宣教の開始については、マルコはこのように伝えています。1章14節「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。よく言われますように、「神の国」とは、本来「神さまの支配」を意味するものです。イエスさまはご自身の登場によって神さまのご支配がこの地上世界においてもはじまっていったことを宣べ伝えて行かれたのです。その一つの具体例として、今日の福音書の日課があるように思われます。
ここで、まず初めに注目したいことは、イエスさまが宣教の具体化を最初に行った場所が、シナゴーグの礼拝でのことだった、と言うことです。もちろん、イエスさまの宣教はそれに限定されるものではありませんが、マルコはまず最初に、そこで行われた宣教の業を伝えていることには意味があるようにも思うからです。
このシナゴーグ…、ユダヤ教の会堂ということですが、これはバビロン捕囚以後のことのようです。南ユダ王国は新バビロニア帝国によって滅ぼされ、国の主だった人々、利用価値のある人々は捕囚としてバビロニアの地に連行されてしまいます。これが、いわゆるバビロン捕囚ということですが、当然、それまでの信仰の中心地であったエルサレム神殿に行くことができず、その代わりにシナゴーグ(会堂)を作って、そこで信仰を、あるいは自分たちのユダヤ人としてのアイデンティティーが保たれていきました。それが、バビロンからの帰還後も、神殿は再興されましたがシナゴーグの文化も引き継がれることになったわけです。
そこでは、今日私たちキリスト教の礼拝の原型とも言われる礼拝(賛美がなされ、聖書が読まれ、聖書の説き明かしである説教がなされ、といった)がなされていました。その礼拝の中で、先ほど言いましたように、イエスさまは宣教の具体化をなされていったのです。その一つが「教え」でした。しかも、それを聞いていた会衆が「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えられたと受け止めるほどの、これまでとは全く違った力ある教えでした。そして、もう一つは、悪霊追放ということです。
悪霊に憑かれるということは、悪霊に支配されている、ということでしょう。つまり、悪霊追放とは、そんな悪霊による支配からの解放、自由を意味するでしょうし、また、ひいては神さまのご支配がその人を覆った、ということにもなるでしょう。いずれにしても、その人にとっては、それは救い以外のなにものでもなかったはずです。それが、その力ある業が、まずは礼拝の場で行われた、とマルコは告げるのです。イエスさまの言葉・教えの力と行動・行為の力によって人は救われる。それが、礼拝の場で起こる。そうマルコは告げる。
そして、その時の人々の反応にも注意を向ける必要があるでしょう。つまり、「驚き」といった反応に、です。イエスさまの言葉・教えを聞いた人々は、イエスさまの行動・行為を目の当たりにした人々は、皆驚いた。それが、イエス・キリストという方の力に触れた人の姿なのです。
私たちだって、そうだったのではないか。最初、教会に来て、聖書を読んで、驚いたのではなかったか。私は、最初に教会に来たときに驚きました。それは、今まで出会ったことのないような人々が、その中にいたからです。以前もお話ししましたように、当時は思春期の真っ只中でしたので、とにかく、手当たり次第に反発をしていました。
もちろん、それには自分なりに理由があったのですが、少なくとも、大人たちは不誠実で、信用ならない、と思っていたからです。しかし、教会に佇んでいたほんの数人の大人たちでしたが、私のそんな思いを覆すのに十分でした。初対面のトゲトゲした少年を優しく迎え入れてくれた、そんな大人たちに私もなりたい。そう思ったからです。
聖書を読んでも驚きの連続でした。たびたび自分の内面が炙り出されるような感覚を覚えました。私は、あんな人たちとは違う、もっとマシだ、といった安っぽい自尊心など、すぐに吹き飛んでしまいました。実際に人を無き者にしなくても、心の中で殺意を抱くならば、その人の存在を否定するような思いを持つならば、それは殺人に等しいとのイエスさまの言葉に、戦慄を覚えました。あるいは、実際に姦淫を犯さなくても、心の中で不埒な思いを抱くならば、姦淫したことに等しいとの言葉に恥入りました。
それらの思いが自分の内に無いとは言えなかったからです。右手が躓かせるならば切り捨てよ。右目が躓かせるならば、抉り出せ。そうなっても救われる方がまだ良い、との言葉に、自分はどうすれば良いのかと悩みました。「汝の敵を愛せよ」との言葉に心から感銘し、世界中の人がこの言葉に従えることを願いました。イエスさまの十字架の場面では、涙流さずにはいられませんでした。
復活の記事に戸惑いながらも、不思議な安心感と希望を抱いたものです。いつも、すんなりと読めたわけではなかったし、信じ切ることもできなかった。疑い、躓き、反発もした。しかし、それでも、心を動かされて来ました。不思議な驚きを持って…。皆さんもそうだったのではないでしょうか。しかし、いつの間にか、私たちは驚かなくなってしまったように思います。当たり前になりすぎて、慣れすぎてしまったからです。しかし、果たしてそうでしょうか。信仰生活を続けるということは、どうしても驚きを忘れてしまうということなのでしょうか。「いいえ、違う」と自戒の念を込めて言いたいと思うのです。そうではない。
今でも、何年経とうとも、イエスさまと、その教え・言葉と真摯に向き合うならば、驚かざるを得ないはずです。なぜならば、そこに神さまの力が満ちているからです。私たちは、信仰においても大人の狡さを身につけてしまったのかもしれません。ほどほどに、適当に、と。そうは言われても、所詮私には無理なのだ、と。そうであれば、そこには決して神さまの力は見えてこないでしょう。「愛せよ」とのみ言葉一つでも、私たちは驚かざるをえない。なぜならば、神さまの、イエスさまの力抜きで
は、私たちは誰も愛せないからです。誰も…。
私たちはもう一度この驚きの生活を取り戻すためにも祈っていこうではありませんか。
祈り
・緊急事態宣言後、徐々には感染者数もおさまって来ていますが、まだまだ高止まりの状態です。また、医療機関の逼迫度は改善されていません。どうぞ憐んでくださいまして、少しでも医療機関等の負担が軽減されていきますように。また、感染された方々も回復へと向かわれますように、どうぞお助けください。
また、このコロナ禍にあって、倒産やリストラなどで職を失った方々も多くいらっしゃいます。まずは、生活が守られるよう支援の手がいち早く届きますように、国や自治体などの働きをどうぞお導きください。また、良き職場も与えられますようにお助けください。
・また東日本、北日本では大雪の恐れがあるようです。今年は、近年になく各地で大雪に見舞われ、多数のトラック等が立ち往生したり、また雪の事故も後を断ちません。どうぞ憐れんでくださり、大きな事故等が起きませんように、地域の方々もどうぞお守りください。
・愛する方々をあなたの身許に送られた方々がおられます。どうぞ憐れんでくださり、豊かな慰めと励ましを、またあなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。また、月日が流れても、なかなか悲しみが癒えない方々もおられます。どうぞ、残されたご家族の上に力を与えてくださり、あなたを見上げて力強く歩むことができますように、その心の悲しみ、寂しさにも触れてくださいますようにお願いいたします。どうぞ、お一人お一人をお支えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン