【説教・音声版】 2021年3月7日 「主イエスの実力行使 」 小山 茂 牧師

四旬節第3主日


出エジ20:1~17 Iコリ1:18~25 ヨハネ2:13~22

エルサレム神殿

福音書の舞台はエルサレム神殿です。説教黙想をしていて、神殿がどのようなものであったか、調べてみました。神殿は3000年前に建てられ、紀元70年に破壊されました。神殿の始まりはダビデの子ソロモンが、紀元前950年頃に第一神殿を建立しました。しかし、南ユダ王国のバビロン捕囚のあった折、バビロニアのネブカドネザル王により紀元前586年に破壊されました。紀元前515年以降ネヘミヤやエズラにより新たに第二神殿が完成され、主イエスと同時代のヘロデ大王によって改築されました。その神殿も70年にローマによって破壊されました。取り壊された神殿の上に現在は、金色の丸屋根をもつ「岩のドーム」があり、イスラム教が大切にしています。残された神殿の城壁の一部が「嘆きの壁」として、ユダヤ教徒の巡礼地となりました。宜しければウェブサイトで、「エルサレム神殿」と検索してみてください。3D画像で神殿を散策するように見ることができます。ヨハネ福音書に過越祭が3度登場することから、主イエスが宣教活動された3年間、西暦30年頃に第二神殿は未だ残されていました。

神殿の礼拝

神殿での献げ物の調達方法を知ると、福音物語が分かり易くなります。旧約の申命記14:24~26に記されています。「あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主のみ前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。」神に献げ物をして、家族が共に祝う様子が描かれています。

エル・グレコ El Greco (1541–1614) 神殿を清めるキリスト Christ cleansing the Temple ナショナル・ギャラリー・オブ・アート National Gallery of Art, Washington DC


ユダヤ人には、エルサレム神殿に巡礼する祭りが年に3つありました。その中で最も盛大なものが過越祭で、イスラエルの民が神の助けにより、エジプトを脱出したことを記念するものです。その過越祭が近づいたので、主イエス一行はエルサレムに上られます。神殿は異邦人の庭まで、誰もが入ることを許されています。ディアスポラ〔離散〕のユダヤ人は、遠方からエルサレムにやって来ます。神殿に献げる犠牲の動物を、遠くから連れて来るのは大変なことです。そこで境内には犠牲の動物を売る者、神殿税の支払いのためユダヤ貨幣に両替する者がいます。遠くから来るユダヤ人が通常使う、ローマやギリシア貨幣を神殿では使えません。皇帝の顔や銘が刻まれていたからです。神殿ではユダヤのシュケル銀貨が必要です。過越祭の神殿礼拝には、生贄動物の売買と両替は必要不可欠なことでした。

主イエスが神殿の境内に入って来られると、生贄を売る商人と両替商人が目に入ります。主は縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替商の台をひっくり返されます。神殿の前庭はかなり広く、主お一人での商売の邪魔を止められなかったのでしょうか。神殿警備隊が介入したり、ローマの駐屯兵が気づいたりしなかったのでしょうか。周りの人たちから見れば、突然の過激な実力行使でした。しかし、境内での商売を慣例として、神殿当局は許可していました。

熱情に食い潰される

鳩の商いをする者たちに、主イエスは言われます。「このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」神殿は神が住む家であり、神は主イエスの父ですから、神殿は「わたしの父の家」に間違いありません。弟子たちは主の豹変に驚き、その訳を詩編69編10節から思い起します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしている。」ヨハネ福音書では熱意と訳され、詩編では熱情とあります。旧約の日課は出エジプト記20章で、神がイスラエルのリーダーであるモーセに、十戒を授ける物語です。

その中に神ご自身が「わたしは熱情の神である」と言われます。さらに、「わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」神を拒む者には何代に渡り懲らしめがあり、神を愛する者には何代に及ぶ慈しみがあります。それも、当人だけならまだしも、子や孫何代にも及ぶとあります。旧約の神はイスラエルの民を愛されるあまり、神を拒む者に妬(ねた)みさえされます。私たち人間ならそれもあるでしょうが、ちょっと失礼な言い方になりますが、神の執念深さには驚かされます。

また食い尽くすと訳されたギリシア語は、滅ぼすと言う意味もあります。自らを滅ぼすとは、主イエスの十字架を指しています。自ら動物の犠牲の代わりとなられ、人間の罪を一人で背負われます。それゆえ神殿礼拝における、犠牲の動物は必要なくなります。主イエスこそが羊や牛の代わりに、私たち人間のため生贄となられます。境内の動物をあれほど激しく追い出された、過激な実力行使には主の御心がありました。

福音書の小見出しは「神殿から商人を追い出す」とありますが、短く「宮清め」とも言われます。この物語は4つの福音書すべてにあります。ヨハネ福音書では2章「カナの婚礼」の直後、主イエスの宣教活動の初期にあり、十字架に向かわれる伏線となります。共観福音書マタイ・マルコ・ルカでは、エルサレム入城に続き宮清めがあり、主は十字架に向かわれます。

主イエスの根拠

ユダヤ人たちは、主イエスの実力行使を非難します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」主の無礼な行いが正当である根拠を、自分たちに見せてくれと要求します。主イエスは答えられます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主は敢えて、誤解される言い方をされます。主の言われる神殿はご自分の体のことであり、ユダヤ人の言う神殿は目の前にある構造物です。両者の会話はすれ違い、全く噛み合いません。その行き違いを解く鍵は「建て直す」と訳された、ギリシア語動詞にあります。「呼び起こす、目覚めさせる」と言う意味もあり、主イエスは自らの甦りについて言われ、十字架から三日後に復活すると語られたのです。しかし、ユダヤ人の言う神殿は建造物であり、三日で建て直すと理解したのです。

ジョット・ディ・ボンドーネ (–1337) Expulsion of the Money-changers from the Temple  スクロヴェーニ礼拝堂


彼らは主イエスに呆れたように言います。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」

ユダヤ人の無理解、それは弟子たちも同様です。福音の結びに語られています。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」ユダヤ人と主イエスの会話を聞いていた彼らも、主の言葉をその時は理解できません。弟子たちは復活された主イエスに出会って、初めて本当の意味が分かります。ヨハネ福音書14:26に記されています、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」弟子たちが主イエスは救い主と分かるまで、復活後に送られる聖霊の助けを待たなければなりません。

ルターも宮清め

主イエスのお言葉、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」、それにルターの宗教改革が重なります。1517年10月31日にルターが、95か条の提題をウィッテンベルクの城教会に張り出しました。当時のヨーロッパはペストの流行から、四人に一人が亡くなり、人々は死と隣り合わせでした。贖宥状〔免罪符〕というお札をお金で買えば、罪からの償いを免除され、亡くなった方にも及ぶとされました。教会が商売の家とされ、莫大な金銭を得る場所になりました。ルターは強く抗議して、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われると、命の危険を顧みず一歩も引きませんでした。その百年前にチェコの神学者ヤン・フスは、宗教改革の先駆者として登場し、異端者とされ火あぶりの刑に処せられました。もしザクセン選帝侯の庇護がなければ、間違いなくルターも異端者として殺されていたでしょう。

ルターはヨハネ福音書2章から、コメントしていました。教会のサクラメントが牛や羊の代わりに売られるなら、商取引となるから邪悪になる。贖宥状やミサやその他のインチキなものをお金で売るのでなく、こう言うべきである。「愛する友よ、私はあなた方に、我々の主イエス・キリストの福音を説教しましょう。福音を通して我々は、恵みにより罪の赦しを得るのです。あなた方が、キリストを信じるためです。私は神のために、あなた方の救いのために、私の説教によって奉仕しましょう。求められれば赦免によりただで、あなた方の罪を赦しましょう。

私はそれをあなた方にお金で売るつもりはありません。」いかにもルターらしいメッセージではありませんか。ルターも「わたしの父の家を、商売の家としてはならない」と、主イエスから1500年後に語りました。宗教改革は「ルターの宮清め」とも言えるのではないでしょうか。でもそんなことを言ったら、きっと恐れ多いとルターに怒られることでしょう。