復活節第五主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~8節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。今日も、この有名な御言葉が与えられています。
先週は、「わたしは良い羊飼いである」というところから、「エゴー・エイミ」の話をしました。これは、出エジプト記、あの燃える柴の箇所で、神さまがモーセにご自身の名を告げられた、「わたしはある。わたしはあるという者」である、と関連づけられる非常に意味深い表現方法だ、ともお話したと思います。ですので、先週との関連で言えば、今日の「わたしはまことのぶどうの木」という言い方も、「わたし(こそ)がまことのぶどうの木」と言えるのではないでしょうか。なぜならば、ここでも偽物・まがいもののぶどうの木が多いからです。
ご存知のように、聖書にはぶどう、あるいはぶどう園を用いた譬えが多く記されています。特に、旧約聖書に多くみられますが、ある方が指摘されているように、その多くは叱責を表しているのかもしれません。イザヤ書5章の言葉もその一つでしょう。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張の塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実のを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」。一読して分かるように、大変厳しい言葉です。これは、預言者イザヤが活躍した時代のイスラエルの人々を非難するものでしょう。
ここでは、神さまはこのぶどう畑の所有者、また手入れをするという意味では、今日の箇所に出てくる「農夫」とも言えるのかもしれません。所有者であり、またご自分の畑をご自身で手入れをされる農夫でもある神さまは、このぶどう畑のために最善を尽くした、と言われます。まず、それは肥沃な土地でした。そして、よく耕して、邪魔になる石も丁寧に取り除け、甘い実を実らすであろう良いぶどうの木を植えられた。しかも、それだけでは終わりません。野獣や盗賊に荒らされないようにと、石垣で囲いを作り、見張の塔まで立てられた。準備万端。あとは収穫を待つばかり。そして、ついに収穫の時を迎えたのに、実ったのは予想に反して酸っぱいぶどうの実だった。当然、がっかりします。なぜ、こうなってしまったのか、落ち度はなかったか、考えてみる。しかし、見当もつかない。
普通、これだけ整えられれば自然と良い実を実らせるものです。しかし、そうはならなかった。何らかの原因でぶどうの木そのものが変質してしまったとしか思えない。そう問う。もちろん、そのぶどうの木とは、当時のイスラエル人のことです。なぜ、そんなにもお前たちは変わってしまったのか、と問う。イエスさまは当然、このような旧約聖書の物語りを、よくよく知っておられたでしょう。
イエスさまはこういうこともおっしゃっておられます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。
この法則で言えば、先ほど言いましたように、木そのものに問題があったということになるでしょう。本来良かったはずの木が、悪い木になってしまった。ここに、限界を感じられたのではないか、とも思うのです。最初はいくら良い木であっても、それが人間である以上、最後までその良さを保てるとは限らない。むしろ、人は歪むものです。良き動機からはじめたはずなのに、それがいつの間にか変質してしまい、悪いものになってしまう。そんな例は枚挙にいとまがないでしょう。
だからこそ、イエスさまはこうおっしゃる。「わたしはまことのぶどうの木」なのだ、と。「わたしこそが、まことのぶどうの木」になるのだ、と。いくら神さまが準備万々整えてくださったとしても、人にはなし得なかったことを「わたしが、する」のだと、そうおっしゃっておられるのではないか、そう宣言されておられるのではないか、そう思うのです。
今日の第一の朗読は、エチオピアの宦官の回心の物語りでした。私は、今日の福音書の関連としてこの箇所が取り上げられているということは、この箇所自体が実を結ぶことの実例の一つと考えられてのことではないか、と思っています。新たに、異邦人であるこのエチオピアの宦官がキリスト者とされたという事実そのものが、何よりも実りの一つに違いないでしょうが、ここで用いられたフィリポという存在自体もまた、実りと考えても良いのではないでしょうか。
宣教は教会に託された一大使命です。また、今日の箇所の「実り」と関連づけて考えることもできるでしょう。私たちは、イエスさまに宣教の実りを期待されている。しかし、正直、私たちは難しいとも思っています。しんどい、とも思います。あるいは、「重圧」に感じているのかもしれません。分かっています。大切なことくらいは…。でも、うまく話せる自信がありません。そもそも、自分がクリスチャンであるという確固たる自信を持てずにもいます。そんな私に、一体何ができるのか…。大なり小なり、誰もが悩むところでしょう。私自身、そうです。でも、今日のこの箇所は、そんな私たちに勇気をくれるものだとも思うのです。ここで用いられたフィリポは、全く能動的ではありませんでした。聖霊の言うがまま、導きのままです。ああしなさい、こうしなさい、に従っただけです。
しかも、自分の方からは、イエスさまの「イ」の字も話さなかった。きっかけは、向こうが与えてくれた。聖書を読んでいる声が聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけただけ。何という自然な流れでしょう。一切無理がない。これなら、私たちにもできるかもしれない。相手の必要に応じて、答えるだけなら。相手の問いに、自分なりの答え、体験を語るだけなら、できるかもしれない。確かに、パウロのような宣教のスタイルもあるはずです。自分から積極的に飛び込んでいって伝えるやり方が。
しかし、違った実の結び方もあるはずです。それを、このエチオピアの宦官の物語りは教えてくれているように思います。
いずれにしても、大切なことは、イエスさまとつながっている、ただこの一点です。他にはない。私たちが良い実を結ぶ良い木になる必要もない。頑張って良い実を結ばなければ、でもない。幹から振り落とされないようと必死にしがみつくのでもない。そんな枝など見たことがあるでしょうか。枝の方が必死にしがみついている姿なんて。そんなのは不自然です。そもそも枝とは幹から生えてくるものです。枝が自分の力で幹に取り付くのではない。そういう意味では、全てが「まことのぶどうの木」であるイエスさまにかかっている。
そして、イエスさまは私たちを決して切り捨てるような方ではないはずです。しかし、それでも、いいえ、その上で忠告されていることにはしっかりと耳を傾けなければならないでしょう。私から離れてはいけない、と言われていることを。度々ご紹介している雨宮慧神父は、この「つながる」を「別々の人格の間に成り立つ親密で持続的な交わりにとどまる」ことを意味すると言われます。少し難しい言い方ですが、「私とイエスさま」との息の長い交わり、親しき交流ということでしょう。そして、その交わりには、御言葉が不可欠です。
こうあるからです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」。そうすれば、自ずと実は実る。先ほど言った宣教だけが実ではありません。祈りも、感謝も、悔い改め・反省も、日々の選択も、善意の小さな業も、イエスさまとつながり、御言葉が内にあるならば、それはすでに実りなのです。甘い、良い、実りなのです。それらを確かに、私たちは、結んでいる。結ばせていただいている。そして、より豊かに実らせたいとも願っている。そうではないでしょうか。