復活節第六主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~17節
本日の福音書の日課は、先週の続きとなります。つまり、内容が「つながっている」ということです。
先週は、「わたしはまことのぶどうの木」「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という有名なみ言葉から考えていきました。確かに、私たちには実を実らせることが要求され、また期待されています。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と、厳しく戒められてもいるからで
す。確かにそうなのですが、しかし、ここで求められていることは、「つながっている」ということです。誰に。もちろん、私たちの主、イエス・キリストに、です。
このキリストに、イエスさまにつながってさえいればいいのです。離れなければいいのです。そうすれば、自ずと実は結ぶ、と言われている。しかも、それは、良い実です。酸っぱい、悪い実ではない。必ず甘い良い実を結ぶ。なぜならば、木、幹そのものが良いからです。良い実は良い木からしか生じないし、良い木から悪い実は生まれないからです。私たちが良い実を結ぶために、良い木になる必要はない。頑張って、努力して、歯を食いしばって、良い実を結ぶために良い木にならなければならない、というのではない。はなからそんなことは諦めている。なぜなら、人は歪むからです。必ず歪んでしまうからです。最初は良い実を結ぶはずの良い木だったのに、悪い木になってしまう。
そんな人の現実を、弱さ、罪深さを百も承知の上で、だからこそ、お前たちが木になる必要はない。わたしが木になるから、幹としてお前たちをしっかりと守り、支え、命を与えるから、だから、そのわたしにとどまって、離れないで、実を結びなさい、と語ってくださっているのです。
その枝である私たちが、幹であるイエスさまにしっかりととどまっている、つながっているということを、今日の箇所では、「愛にとどまる」と表現されていきます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。そして、「愛にとどまる」とは具体的にはどういうことか、と言うと、「掟を守る」ことだ、と語られており、その掟とは、「互いに愛し合」うことだ、と語られていきます。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。もうすでにお分かりのように、ここでは、幹から枝へと樹液が循環するように、人の体の各器官隅々にまで血液が行き巡るように、神さまからイエスさまへ、イエスさまから弟子たちへ、そして弟子たち相互へと、もちろん、愛とは決して一方通行ではありませんから、それぞれが双方向へと命の循環のように巡り巡っていく様子が伺えるように思います。では、ここで命そのものとも捉えられているような「愛」とは一体何なのでしょうか。
これは以前、zoomの聖書の学び会でエフェソ書を学んだ時にもお話ししたことですが、こんな経験をしたことを今でも鮮明に覚えています。もう20年以上も前、まだ駆け出しの頃のことですが、ある若いカップルの結婚カウンセリング(結婚式前に行われる学び会みたいなもの)をする機会がありました。色々と話を聞いたり、話したりした後だと思いますが、聖書が夫婦生活をどう記しているかの一例としてエフェソ書を開いた時のことです。新共同訳聖書では『妻と夫』といった小見出しが出されていますが、5章21節以下に夫婦のあり方について記されている箇所があります。伝統的に夫婦についての教えとして受け止められてきたものですが、そこにこう書いてある。
「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。ここに触れた時に、彼女の方が苦笑いを浮かべていることに気付きました。どうしましたか、と尋ねると、「無理です」と答えました。当時の私としては、予想していなかった反応に、少しキョトンとしたかもしれません。熟年の夫婦の妻がそう答えるのならまだ分かります。色々とあったのでしょう。しかし、これから結婚しようとするラブラブのはずの彼女の口からそのように聞こうとは、想像もしていませんでした。私は思わず、こう訊ねてしまいました。えっと、彼のこと愛しているんですよね。もちろん、愛しています。でも、仕えるのは嫌です。そのはっきりとした口調に、今度は彼の方も苦笑いをしてしまいました。今なら、この彼女の答えもよく分かります。これは、彼女だけでなく、おそらく世間一般の感覚でもあるのでしょう。しかし、こうも思うのです。伝統的に、愛とは自己犠牲を伴うものだと受け止められてきました。それは何もキリスト教の捉え方に限らないと思います。自分を犠牲にしてでもという母の子を思う愛が、その典型でしょう。しかし、近現代になって、自己実現といった様相の方が色濃くなってきてしまったのではないか、と。
オーストラリアの著名な新約学者でレオン・モリスという方がいますが、この方が『聖書における愛の研究』という本を出されています。この方は、現代において巷では愛が溢れかえっているが、では本当に私たちは「愛」ということを知っているのか、と問われ、C・S・ルイスの言葉を引用しながら、こんな問題提起をしておられます。「『すべての人間的愛は、その最高の形態において、それ自身、神的権威を主張する傾向を持っている。その声は、あたかも神の意志そのものであるかのようにひびく傾向がある。それはわたしたちに犠牲を計算に入れることのないように告げ、全身的な投与をわたしたちに要請する。それは他の一切の要求を無視し、「愛のゆえに」真心をこめて為された行為はそれゆえに正当であり価値があるとさえ言う。エロス的愛や祖国愛が、このようにして「神々となる」ことを企てるということは一般に知られていることである。
しかし、家族愛も同じようなことを為す可能性がある。違った仕方でかも知れないが、友情とて同じであるかも知れない』。愛は人間生活の素晴らしい部分である。それは胸を躍らせてくれるものであり、何かを実現するものである。そして、それは信じられないくらいの範囲にわたって、わたしたちを豊かにすることができる。だが、わたしたちがそれを崇拝するとき、たちまちにして破壊的なものとなる。愛の名において犯されてきた恐るべき犯罪のリストは終わることを知らないのである」。神さまが愛なのであって、愛が神なのではない、ということでしょう。
ともかく、正義ということとも重なる大きな問いかけだと思います。愛が素晴らしいもので、大切であることは誰でも分かることです。しかし、その愛が乱用されたり、歪んでしまうことも実に多い。多くの悲劇は、そんな愛から生まれているのかも知れません。親の愛が子どもを不幸にさせてしまったり、独りよがりの愛がストーカー行為で相手を傷つけ、熱烈な愛が相手を殺してしまうことだってあることを、私たちも知っている。ともかく、私たちは愛を語る前に、愛を学ぶ必要があるように思うのです。愛は大なり小なり自己犠牲を伴うものです。自分と全く異質の相手を受け入れ、愛するということは、何かしら自分を殺さなければ成立しないからです。そして、その最も大きな愛が、命を捨てること。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスさまも語っておられます。そして、何よりもイエスさまご自身が、その愛を示して下さった。十字架の上で。わたしの愛にとどまれ、ということは、そういう愛にとどまる、ということです。そんな愛の中に私たち自身がすでに巻き込まれているということを受け止める、ということです。そんなにも強く、大きく、愛されているのだ、と。
そして、先ほどのレオン・モリスはこうも語っている。「真の愛は、愛する者たちを最善の方向に導くであろう。そしてこのことは、時々懲戒処分がとられるということである。聖書は明らかに、神は破滅的な罪をやめさせるために、ご自分の民を戒められると述べている。旧約聖書の聖徒たちは、この世の苦難と試練には意味があることを疑わなかった。それらは神が民を愛されないということではなく、むしろ愛しておられることの証拠なのである。
苦難と試練は民をつまらぬ罪から導き出し、彼らを正しい道に沿って祝福の場に導く神のわざなのである」。甘やかすだけが愛ではありません。愛とは、私たちを最善の方向へと導くためのもの。その愛の中に、私たちは包まれている。そして、その愛で互いに愛し合うことも求められている。そのことを覚えて、これからも、その愛の中にとどまり続けることを祈っていきたいと思います。