【説教・音声版】2021年6月13日(日) 10:30 説教 「 神の国のたとえ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章26~34節

今日の福音書の日課は、「神の国のたとえ」として良く知られている譬え話しでした。皆さんも何度もお読みになられたでしょうし、ここからの説教もお聞きになられてきたことでしょう。

少し前に、『神の国とキリスト教』という古屋安雄という先生̶̶この先生は元ICU…国際基督教大学教会の牧師と、教授をされていた方ですが̶̶が書かれた本を読みました。私にとっては、決して簡単な本ではありませんでしたが、共感を生む刺激的な本でもありました。これまでも先生の本は何冊か読ませていただきましたが、日本にキリスト教が浸透していかない、根付いていかないことに強い問題意識と危機感を持っておられるように感じます。この本もそういった問題意識の中で記されているものだと思いますが、先生はその原因の一つとして、日本(の教会)では「神の国」ということが語られてこなかったことにあるのではないか、と指摘しておられます。

日本の主要な教派、牧師たちは、「神の国」についてほとんど語ってこなかった。日本で唯一語ってきたのは、賀川豊彦と羽仁もと子くらいではないか、とまで言われる。では、なぜ語ってこなかったのか。これなかったのか。その原因に、古屋先生は「神国日本」という相対立する日本の固有理解にあるのではないか、と指摘されます。そして、特に戦時中、教会は、多くの牧師たちは、当局を憚ってその誤りを正せなかった。むしろ、妥協して、戦争協力にまで踏み出してしまった。

それは、こんな言い方も許されるのかもしれません。現実世界から逃げ出して、信仰の世界へと閉じこもっていった、と。この点について、当時の日本の教会とドイツの教会とがよく比較されることはご存知だと思います。当時のドイツの教会も、ナチスによって相当苦しい状況にありました。そんな中で、むしろ積極的にナチスに協力する教会もあったわけですが、それに反対する告白教会も出てきたわけです。日本でも決してなかったわけではない。特高に捕まり、暴行の果てに命を落とした牧師の話しも聞きます。

しかし、残念ながら、とその時代を知らない者が簡単に言えることではないことも重々承知していますが、日本では決して多くはなかったことも事実です。

長々と歴史的な話しをしてしまいましたが、それが今の私たちとどう繋がるのか。確かに、かつてはそういったことがあったであろう。色々と反省も求められるのかもしれない。古屋先生の指摘ももっともかもしれない。しかし、現代において「神国日本」なんてどれほどの影響があるのか、とも正直思う。しかし、古屋先生は何も過去の話しをしているのではないのです。過去、あの時代において「神の国」を打ち出せなかったことに問題がある、ということではない。今、この現在にまで続いていることに課題があるのではないか、と言われているのではないか。そう思うのです。

先ほどの私なりの解釈をすれば、現実世界から逃げ出して信仰の世界へと閉じこもることに、現実生活と信仰生活とを切り離してしまうことに、課題があるのではないか、と。現実生活・現実社会と信仰世界の乖離、世の中は世の中、私の信仰は私の信仰とすることに。日常生活の中に、信仰の事柄は入ってきて欲しくない、と割り切るところに、その課題が…。なぜならば、「神の国」とは日常だからです。ありふれた日常生活、社会生活の中に神さまのご支配が入ってくることだから、です。

Salvadora persicaサルバドラペルシカ(からしだね) Wikipedia


「神の国」の譬え話に戻りますが、どちらの譬え話も非常に分かりやすいものだと思います。この両者の共通しているのは「種」が登場してくることでしょう。最初の譬え話は、その「種」が自然に成長する、ということです。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

これは余談ですが、ここで「夜昼、寝起きして」と記されていますが、これは、ユダヤ人たちの一日の数え方を反映してのことだろう、と言われています。ご存知のように、ユダヤ人は日没から一日が始まる、と考えるからです。しかし、日本人の私たちからすると、なかなか馴染まない感覚でしょう。私自身、けったいやな、と思っていましたが、ある方の指摘を受けて、少し考えてみました。

皆さんも、そんなふうに感じたことはないでしょうか。朝起きて、今日も一日頑張ろうと思う日もあれば、もう朝が来てしまったのか、あ~、しんど、と思う日が…。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私がルーテル学院大学に通っていた2年間は、まさにそういった状態でした。学校から帰ってくると、食事をして、風呂に入って、午後8時からはじまる勤務時間に間に合うように家を出て、明くる朝午前8時に仕事が終わると、その足で学校に行くという生活が続いた。

あまりのしんどさに、正直、次の日よ来ないで、と何度も思いました。活動から一日が始まるという私たちの感覚。休息から一日が始まるというユダヤの感覚。私は、このユダヤ人たちが考えた一日のあり方もいいな、と正直思いました。ともかく、蒔かれた種がどのように成長し、実っていくのか、人は知らないのです。神さまがそのように、種を、土・世界を造られた。自然に成長し、実っていくように、と。

そうとしか、言えない。これは、非常に慰められる言葉です。しかし、同時に、私はいつもここで自分の不信仰さを知らされるのです。なぜ、この神さまを信頼して待てないのか、と。信じているといいながら、あれは出来ているだろうか、これは出来ているだろうか、と、自分の業ばかりに心奪われて、芽が出てこないとなぜだ、と問い、不良品ではないか、と疑い、思ったような成長が見られないと、そこでもイライラしてしまう自分がいる。

本当に情けない、と思いつつも、それを繰り返してしまう始末です。何もしなくて良い、ということではないでしょう。この農夫も自分にできることをしたでしょう。水をやり、草を刈り、肥料を与えたりと。しかし、それよりもはるかに大事なことに目を向けてほしい、と言われるのです。種を芽吹かせ、成長させられるのは、神さまのみ業なのだ、と。

人は、どうしてそのようになるのか理解できなくとも、神の国というものは、そのように必ず成長していくものなのだと、そう言われる。 次のからし種の話も、よくお分かりでしょう。最初は小さくとも、大きく育つということです。そうです。最初は小さいのです。よくよく見ないと見えないほどに小さく、これが果たして成長するのか、と疑われるほどです。しかし、神の国とは、そうやって始まっていったのです。最初は、イスラエルの始祖アブラハムからだ、と言っても良いのかもしれません。その時代、世界の人口がどれほどだったかは分かりませんが、その中のたった一人の人からはじまったと言っても良いでしょう。そのアブラハムに神さまはこのように約束された。

「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」。神の国とは、神の支配を意味する、とよく言われます。しかし、それは、世の支配者たちが、自分たちの権勢を誇るために権力を振るうような支配とは明らかに違うはずです。そうではなくて、祝福を与えるための支配。全ての人々に、神さまの祝福が豊かに行き渡るためのご支配です。そして、その神さまの祝福とはなんたるかを具現化されたのが、他でもないイエスさまなのです。だから、神の国はイエスさまご自身だ、とも言われる。イエスさまの存在、その言動、イエスさまの全てが、神の国を、神さまの支配を、私たちに知らせてくれる。

日本におけるキリスト教人口は1%とも言われています。人口比30%のお隣韓国ともよく比較され、前述の古屋先生のような危機感ももっともだと思います。ですから、これまでの経緯についての反省も大いに意味があると個人的には思っているところです。しかし、考えてみれば、先ほども言いましたように、この神の国の宣教は、最も小さなからし種からはじまったことも忘れてはいけないのだと思うのです。神の国とは、たとえからし種ほど小さくとも、信じられないほど大きく成長する。しかも、それは、人為的でもなく、神さまの業として、自然と大きく成長していくものなのだと、イエスさまも語ってくださっているからです。

ですから、やはり大切なことは、種を蒔くことでしょう。神さまを、イエスさまのこの言葉を信じて。そして、重要なのが、どんな種を蒔くか、です。いくら驚くほど成長するからといって、からし種を蒔いても意味がありません。あくまでも、蒔くべきものは、からし種のような特徴を持っている「神の国の種」でなければならないはずです。そして、その種を持っているのは、おそらく私たちだけでしょう。イエスさまを知っている、信じている私たちだけが、この「神の国の種」を蒔くことができる。

神さまの祝福の種を、私たち人類に何を望んでおられるのかという種を、ご自身の愛の結晶である種を、私たちは蒔くことができる。そうでは、ないでしょうか。

人口比1%という小ささに、怯む必要はないのかもしれません。自分たちの教会の教勢のために、あくせくするのとも違うでしょう。そうではなくて、この日本に神さまの国が豊かに広がるように、信じて、信頼して、種を蒔き続けて行きたいと思います。