聖霊降臨後第十九主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書10章2~16節
「信仰とは生活である」。以前、そんなことをお話ししたことがあると思います。教会に来る時だけが信仰の歩みではありません。生活の隅々までが信仰の歩みである、ということです。何を今更、と思われるかもしれません。しかし、私は、ここに日本のキリスト教の弱点があるのではないか、と長年考えてきました。いいえ、感じてきた、というのが実情でしょう。信仰理解と実生活とが乖離しているのではないか、と。
しかし、それは、必ずしもキリスト者としての模範的な生き方を意味しないのだと思います。模範的な生き方ができているかどうか、ということではない。むしろ、模範的になりえないことに対する悩みです。信仰者としての悩みを抱えながら生きているか、ということです。信仰が生活になるということは、そういうことではないか。悩みつつ生きる、ということが、生きた信仰と言えるのではないか。私は、そう思っています。
今日の日課は、結婚と離婚について、また子どもについて、ということが主なテーマになっていると思います。そして、次回の日課では、財産について、ということが取り上げられている。結婚、離婚、子ども、財産…。まさしく生活そのものです。私たちキリスト
者の生活そのものについてイエスさまは語っておられるのです。
まずは、結婚と離婚について。これは、ファリサイ派の問いから発生しました。これも良くあることですが、純粋な問いから発生したのではなく、ある種悪意からなされたものです。イエスさまの答え如何によっては、ツッコミどころが満載だと思ったからでしょう。いつの時代でも、権力闘争、主導権争い、政治の世界は変わらない、ということでしょうか。彼らはこう質問した。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。後程の「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」との回答から分かるように、ある意味、答えは明白です。律法では離縁・離婚は認められていたからです。
しかし、彼らはイエスさまの答えを待っていました。もし、許されていないと答えたならば、「ほら見たことか。こいつは人々を教え回っているようだが、律法に反することを教えているのだ」と聴衆の前で非難できる。逆に、許されていると答えたならば、では、どんな時に許されているのか、とツッコムことができる。
実は、これは申命記24章1節に起因するものでした。こう書いてある。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。そこで問題になるのが、では「恥ずべきこと」とは一体何か、ということです。その理解の仕方について、当時は大きく二つのグループに分かれていた、と言われています。一つはより厳格なグループ。浮気などの不貞行為を除いては一切認められない、という立場です。もう一つは、ゆるいグループ。極端な例でしょうが、料理が下手ということだけで当てはまると考えていたようです。もしイエスさまがどちらかに近い判断を下されたとすれば、少なくとも今の人気は切り崩せると考えたのかもしれません。厳格な理解を示せば、おそらく多くの男性の支持を失うでしょうし、ゆるい理解を示せば、女性たちは去っていくかもしれません。なんだか、与野党の攻防のようです。
鈴木浩先生が『ガリラヤへ行け』(これは、マルコ福音書の注解書のようなものですが、非常に良い本だと思います)という著書を出されていますが、このように記されていました。「実は、申命記の規定は弱い立場の女性を保護する目的を持っていた。…当時のユダヤ人の間では、結婚の当事者は対等ではなかった。女は自分の意志で『結婚する』のではなく、父親の意志で『結婚させられた』のである。そのような一方的な慣習の中で、男の身勝手さを幾分かでも緩和させようとしたのが、この規定であった」。今日のマルコには記されていませんが、平行箇所であるマタイ福音書では、イエスさまの回答を聞いた弟子たちがこのような反応をしたことが記されています。
19章10節「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った」。ここに至っても、男性の優位性を手放したくないのです。ともかく、いずれにしても、ここにあるのは、男性の身勝手さに違いない。男性優位の立場に違いない。結婚関係では、それは譲れない、と思っている。イエスさまの話を聞いた弟子たちでさえも、そこは引けないと思っている。しかし、イエスさまはどう語られたのか。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。イエスさまは彼らの、いいえ、私たちの議論、関心事、つまり、どこまでが許されて、どこからがダメなのか、これは正当化できることなのか、できないことなのか、どちらが優位で優先されるべきなのか、そういった現実生活の関心事、課題を超えて本質へと、つまり本来の神さまの御心へと私たちを向かわせておられるのです。
今日の旧約の日課は、創造物語の一つでした。確かに、ここには男性の「助け手」としての女性、男性の肋骨から作られた女性、といった男性優位的なところも見えなくはないですが、しかし、それでも、他の生き物とは全く違う女性の特異性、男性と女性との一体性は伝わってくると思います。男性と女性、この深い結びつきは、やはり特別なのです。しかも、その特別な姿は神さまの姿とも重なってくる。なぜなら、この男性と女性とで命を生み出し、命を育むといった神さまの大いなる御業に連なるからです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。命の出来事に関わることができる。
これが、何よりの夫婦の特権です。神さまにかたどって造られた男と女の姿です。つまり、結婚というものは、創造の初めから神さまの大いなる祝福にもとにある、ということです。神さまは祝福するために男と女とを造られた。祝福するために男と女とを結び合わされた。それが、本来の神さまの御心なのです。ですから、生まれてくる子どもたちも当然祝福されることになる。神さまに、イエスさまに祝福されるのです。たとえ大人たちがどう思おうと、いいえ、場合によっては親たちでさえも好ましく思っていないのかもしれない。
しかし、生まれてきた子どもは祝福されている。創造の御業として祝福されている。それなのに、お前たちは、離婚の理由として正当化できるものはなにか、事あれば別れてやれ、当然の権利だ、自分の子どもを好き勝手して何が悪い、とそんなことに心向けながら生きること自体、神さまの本来の思いから大きくズレてしまっているのではないか、と問われるのです。
このイエスさまの教えを律法的に捉えるのは間違いです。つまり、離婚は絶対に許されない、ということではない。もっと言えば、このイエスさまの言葉を、残念ながら結婚生活に終止符を打たざるを得なかった方々を苦しめるために用いられるべきではない、ということです。現に、イエスさまが離婚した女性を拒絶されていないことは、あのヨハネ福音書にあるサマリアの女性とのやりとりからも明らかです。むしろ、この言葉は、今、結婚生活を営んでいる者たちこそが真に聞かなければならないのかもしれません。神さまが本来意図されたように、この結婚生活を、結婚相手を見ているのか、と問われるのです。そこで生まれるのは、そう、反省です。その通りにはなかなか生きられないという悩みです。神さまの真実の前に立たされるということは、そういうことです。
最初にキリスト者というものは、悩みながら生きるものだというようなことを言いましたが、それは悔い改めつつ生きる、ということです。先ほどの悩みが悔い改めへと導くきっかけになるからです。イエスさまは唯一神さまの御心を知っておられる方です。そのイエスさまが神さまの真の御心を示されるとき、私たちはどうしても悩まざるを得なくなる。悔い改めざるを得なくなる。しかし、それも、神さまの本意ではないのです。なぜなら、悩みをもった者を、悔い改める者を赦しへと、祝福へと招き入れることこそが、神さまの本意だからです。イエスさまはその真実の姿をもはっきりと私たちに示してくださっている。十字架と復活が、それです。
今日の箇所では、このようにも記されていました。「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。大人になればなるほど、人の善意に素直になれないものです。それは、多く傷ついてきたからです。傷つけてきたからです。結婚に破れた者だけではない。たとえ結婚生活を続けられたとしても、傷つけ、傷ついてきた。そんな私たちをイエスさまは手招きされる。さあ、私のところにおいで、と。
その時、いつも間にか私自身小さくなって、子どもになって、イエスさまに引き寄せられて、「大丈夫、私が赦す。君は神さまに徹底的に愛され祝福されているのだから」と、その膝に抱き上げられ、力強い温かい手を私の頭の上に乗せて祝福で包み込んでくださっているのを想像するのは、私だけでしょうか。